3年連続最下位も野村克也氏の阪神監督は失敗ではなかった…赤字で書かれた野村メモが物語るもの
三宅さんが監督室で野村さんに資料を渡すと、何も言わず鋭い目で、長い時間、それらに目を通した野村さんは、「ヤクルトよりええデータが揃っとるやないか、なんでこれで阪神は勝てんのや」と、いきなり毒舌をぶったという。 阪神のデータは見やすいようにポイントとなる空振りや球種が色分けされていた。 「どんなデータでも集めるのでなんでも言ってください、阪神を勝たせて下さい、とお願いした。野村さんには、3年間で、一度もこれが足りんとぼやかれたことはなかったんです。野村さんは、毎日、スコアノートを持って帰って研究していた。それを映像と見比べてもう一度、見直す。『おい三宅!このスコアのボールは実際には一個上やないか』とかの指摘はよくあったけどね」 野村さんが来て阪神の野球は変わろうとしていた。 高知・安芸キャンプの初日に「ノムラの考え」という野村ミーティングの要点をまとめたファイルが全員に配られた。カウントの性質や配球や読みの基本、投手心理、野手心理などが細かく整理されて書かれた虎の巻だ。そのファイルを教科書に進められる野村ミーティングは、連日、宿舎で1時間に及んだ。これまでキャンプ中に、ここまでミーティングを行う野球漬けの文化は阪神にはなかった。 「理を持って野球をせよ」「情報を最大限に生かせ」「問題意識を持て」と、繰り返し説き「考える野球」を植え付けようとした。 「無視」「称賛」「非難」の人心掌握3か条を巧みに使い、新庄剛志氏には、投手をやらせて違った角度から野球を学ばせ、左腕の遠山昭治氏、下手投げの葛西稔氏を一度守備に就かせて「遠山 - 葛西 - 遠山 - 葛西」と小刻みに継投するノムラマジックを駆使。赤星憲広氏、藤本敦士氏ら足の速い選手7人を「F1セブン」と名付けて機動力野球も仕掛けた。1年目の6月には首位に立ち2年目は春先に1分けを挟み9連勝した。毎年、一度は、野村阪神旋風を巻き起こすがシーズンが終わると3年連続最下位である。 三宅さんは「野村さんは本気でチームを変えようとしていたがチームに力がなかった」と振り返る。 「勝つためには、主導権を取ることだと訴え、プロセスを大事にして、すべてに根拠を求めた。あらゆる方向から勝つ方法論を打ち出した。無形の力を得よと訴えた。しかしチームに体力がなかった。選手には野村さんの教える野球を消化、理解するだけの力がなかった。戦力も整っていなかった。野村さんのぼやきで、選手は発奮どころかしゅんとしてしまい、どんどんマイナスの方向に向かってしまった。でも星野仙一さんが来て2年後に優勝した。星野さんは、選手を大きく入れ替え、金本をFAで取るなど大改革をしたが、その土台には、野村さんが教えた遺産があったと思う。野村さんは阪神監督をしたのは失敗だったと言っていたが失敗ではなかった」 星野体制でもチーフスコアラーとしてチームを支えた三宅さんは、星野さんから「野村さんが教え込んでくれた野球のおかげだ」と打ち明けられたこともあったという。 「矢野監督もベンチで野村さんにぼやかれ配球を学んだ一人。私も阪神を離れてから昨年まで、岡山商大で指導していたが、それも野村さんに教えてもらった野球がベースになっている。野村さんは亡くなられたが、ノムラ野球は脈々と継承されていくのではないか」 三宅さんは天国へ旅だった野村さんに両手を合わせた。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)