被災地の最前線で人命救助 東日本大震災での教訓を次の災害に生かす 元宮城県警の本部長
khb東日本放送
東日本大震災当時、警察官は最前線で人命救助に当たりました。未曾有の事態に現場は混乱し、殉職した仲間もいました。教訓を次の災害へ生かそうと歩み始めた、当時の宮城県警本部長です。
12日、静岡県磐田市で災害時の遺体安置所の運営に関する研修会が開催されました。南海トラフ地震で多数の死者が出ることを想定した研修会には、磐田市の職員や警察官などが参加しました。 竹内直人さん「今の仕切りのまま、次の大災害が来た時に想定通り円滑に、必要な作業ができるだろうか」 講師として招かれた竹内直人さん(66)は、東日本大震災当時の宮城県警本部長です。当時、多くの死と向き合い宮城県警のトップとして陣頭指揮を執りました。宮城県警の災害警備本部は発災当時、相次ぐ110番通報や現場の警察官からの無線情報が錯綜し混乱していました。 竹内直人さん「何時何分に大きな波が来たとか南三陸警察署の3階まで水没したとか、そういう話は次から次に入ってくるわけですよ。気仙沼市が火の海になったんですけど、もうこれは本当に言葉もない。まさにこれは地獄だなっていう。どれだけの被害があるのか。あぜんとする思いはあるんだけど、自分はやっぱり本部長なのでとにかく自分としてやらなきゃいけないことは何だろうかは一応考えながら(やっていた)」 万人単位の犠牲者が想定される中、当時の竹内さんの手帳にはこう記されていました。 「1万人地獄 これから本番 現場はもっと辛い」 竹内直人さん(当時)「ご遺体の収容等の状況ですが、前日9時段階で4882ということです。1万5000人分以上は保管できる能力が必要ではないかと考えております」 発災から3週間後、竹内さんが石巻市を訪れた日に行方不明となっていた河北警察署の警察官が遺体で見つかりました。 竹内直人さん「無念だったなろうなと思いながら、ただただ敬礼をして手を合わせて。あの現場はちょっとやっぱり忘れられない」 宮城県では、東日本大震災で14人の警察官が殉職しました。 竹内直人さん(当時)「あなた方は警察官として治安維持という崇高な責務を有する一方で、1人の人間としてはそれぞれに愛し守るべき家族があり、将来の夢や希望があったもの存じます。それらの全てを残し、人生の半ばにしてこの世を去らねばならなくなったあなた方の無念さを思う時、胸が張り裂けんばかりの悔しさがこみ上げてまいります」 気仙沼警察署の大谷駐在所と鹿折駐在所に勤務していた2人の警察官は、パトカーで住民の避難誘導をしていたところ津波に巻き込まれました。1人は遺体で見つかり、1人は今も行方不明のままです。当時、気仙沼警察署の署長だった佐藤宏樹さん(63)です。 佐藤宏樹さん「優秀な戦友を2人も失ってしまったことに関しましては、今でもその悲しみが癒えることはありません。当時の気仙沼警察署の正面出入口のすぐ近くまで津波火災が及んでいた。大川という大きな川がありますが、川を挟んで向こう側は全部津波火災で焼失してしまっていたんです」 発災後に警察無線から大津波警報発令の報告を聞いた佐藤さんは、気仙沼警察署員に住民への避難誘導をした後、高台に逃げるよう指示しました。一部の署員に対しては、拳銃や無線機などの重要物品を管理するために、警察署の3階に残るよう指示しました。 津波は、庁舎1階の天井付近まで押し寄せました。残った署員は逃げ遅れた20人以上の住民を助けましたが、今でも「あの判断は正しかったのか」と自問自答しています。 佐藤宏樹さん「ベストの判断が難しかった。だけどベターな判断にしようと自分の頭の中では常に言い聞かせて、80名の指揮官として一生懸命頑張って士気を鼓舞していたと思っています」 警察官たちは震災当時、未曾有の事態の中で人命救助に当たりました。竹内さんは退官後に警察謝恩伝道士として、全国の警察官や市民に講演を行っています。2023年には警察OBによるNPO法人を設立して、東日本大震災の教訓を生かして次の災害にどう備えるべきかを伝えています。 竹内直人さん「万が一災害が起こった時に、ちょっとでもその作業を効率的に迅速にご遺体をご遺族にお返しするためにじゃあ準備をどうするか」 東日本大震災では1日で1000人の遺体が発見された日もあり、収容場所や検視の資機材の確保が困難でした。警察OBから支援の申し出があったものの、二次災害に遭った際の補償が無く断念せざるを得ませんでした。 竹内さんは震災を経験した警察OBを現地に派遣し、支援する方法を模索しています。 竹内直人さん「警察官をもう辞めたんだから関係ないだろうって言われるとそうかもしれないんですけど、幸か不幸か、あの時の宮城県警本部長っていうのは私しかいないので、自分にやれることがもうちょっとあるかもしれない」
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