東海道「五十七次」定着を…大阪・守口市など観光振興図る
江戸から京までの「東海道五十三次」は、大坂までなら「五十七次」になるとして、57番目の宿場があった大阪府守口市などが、観光地として浸透させようとPRに力を入れている。30日、同市内では「五十七次」を知るイベントが開かれた。 【画像】大阪府
江戸幕府は、東海道から大坂への街道を整備し、伏見、淀、枚方、守口の四つの宿場を設けた。江戸後期に作成され、各宿場の規模などを記した東海道宿村大概帳には、品川から守口まで57の宿場が記載されている。しかし、歌川広重の「東海道五十三次」に描かれているのは、江戸の日本橋から京の三条大橋までだ。
この日のイベントで、参加者は、淀川の堤防として建設され、街道にもなった「文禄堤」を散策。近くのホールで行われたパネルディスカッションで、瀬野憲一市長は「守口は交通の要所だったと感じる。民間の協力も得ながら『五十七次』を浸透させたい」と話した。
JR東海元専務で、東海道町民生活歴史館(静岡市)で館主を務める志田威さん(81)は「広重の絵が教科書で取り上げられ、『五十三次』のイメージが定着した」と説明する。
今年は、東海道で最後に整備された庄野宿(三重県鈴鹿市)が完成してから400年の節目。枚方信用金庫が、街道沿いに「五十七次」と記したのぼりを設置するなど官民を挙げた取り組みが進められている。