高野連副会長を歴任、故・越智隆弘「しのぶ会」阪神チームドクターとしても陰で支えた/寺尾で候
<寺尾で候> 日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。 ◇ ◇ ◇ 大阪警察病院院長、大阪大学名誉教授(医学部整形外科学教室)だった故・越智隆弘の「しのぶ会」がさる23日、リーガロイヤルホテル(大阪市北区)で厳かに執り行われた。 整形外科専門医で、スポーツ関連では、高野連副会長を歴任し、阪神球団チームドクターでもあった。会場内には「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」のBGMが静かに流れた。 大阪大学整形外科教授・岡田誠司、同整形外科同窓会会長・岩崎幹季、大阪警察病院院長・沢芳樹らがささげた弔辞には、越智の人柄と数々の功績がちりばめられた。 阪神・淡路大震災に見舞われた95年は泊まり込みで任務にあたったという。また高校野球の「障害者予防活動」で中心的役割を果たし、プロ・アマ野球界に多大な貢献をした。 90年代後半、沖縄の投手の登板過多を見るに見かねて、直接、高野連に電話をかけて「高校野球は教育の一環なのに」と疑問を呈したのが、後に高校球児の肩肘健診につながっていく。 当日も披露されたエピソードだが、高校で活躍した逸材がプロ入り後に肩肘を壊すケースがあちこちで見られる事態に危機感を抱く。それが高校野球界で取り組んだ医療改革の出発点だ。 越智をしのぶ会には、阪神球団社長・粟井一夫をはじめ、三好一彦、南信男、四藤慶一郎ら歴代球団社長も参列。85年阪神初代日本一監督・吉田義男の顔もあった。 チームドクターに就いた時代から親交のあった三好は「越智先生には大変お世話になりました」と回想した。南も「なにかあったら越智先生だったので頼りきっていました」と振り返った。 当時の三好は、阪神電鉄本社で取締役西梅田開発室長だったが、野球通で知られ、オーナーの久万俊二郎からの指示もあって、監督の吉田を支えた幹部だった。 その年10月に球団取締役、91年から8シーズンにわたって務めた名物球団社長。特に85年に越智から受けた現場指針が、リーグ優勝、球団初の日本一に影響したという。 「春先に投手の池田(親興)が右手小指を骨折した。近くの病院では骨には異状がないと、痛みがとれれば復帰できるという診断でした。でも越智先生の見立ては“NO”で、しばらく休ませるべきといわれてリハビリを続けるんです。あそこで無理していればぶり返して不調を極めたかもしれない。後半から勝ち続けたのです」 85年5月26日の中日戦(甲子園)、池田は平沼からの死球で右手小指骨折。その後は7月まで登板機会がなく、球宴明け6勝(先発4勝、中継ぎ2勝)でシーズン9勝。日本シリーズでも開幕投手を務めた。 会場内では、越智が85年Vメンバーで構成された「天地会」で、吉田、岡田彰布の日本一監督とのスリーショット、アリゾナ、安芸キャンプ視察などの写真も披露された。 24年5月3日死去、84歳。外傷、緊急対応の絶えない野球界において、かけがえのない存在。そして阪神タイガースの長い歴史の一コマを陰で支えた1人だった。(敬称略)