昭和の〝あぶない記者〟も共感「帰ってきた あぶない刑事」 タカ&ユージは〝正しく〟ルールを破ってくれた
オジさんたちの問題提起だ
とはいえ、ヘタをうてば、時代錯誤の絵空事映画で評価は終わる。そうならなかったのは、2人が持ち続けている「自分が正しいと思えば、それを1人でもやる」という、今となればプリミティブで素朴な価値観が「ないものねだり」で求められていたのだ。そう、「政治的正しさ」や「SNS的他人見合い」や「ネットポリスの恐怖」に日々おびえて生きる現代人の不安感を、この2人のオジさんが胸のすくように払拭(ふっしょく)してくれるのだ。 「GODZILLA×KONG 新たなる帝国」にも言えることだが、ゴジラとキングコングという古いキャラクターを登場させて、現代人の支持を受けるためには「今の時代ではできないムチャをやらせる」ことに尽きる。みんな「整合性のないルールは守りたくない」ということだ。 車の1台も見えぬ赤信号でも止まって青信号を待てが「正しい」ルール。だが、向かい側で目の不自由な老人が転んだらどうする? 渡って助けたら悪人か? それをユーモラスで痛快無比な刑事ものとして問題提起しているのが、このオジさんたちと思っていいのではないか。
わがまま者が組織を活性化する
ちょっと映画から外れる話をしよう。人間、年の取り方はむずかしい。サラリーマンは、大抵それを、30、40、50、60という年齢の節目で実感する。体力の低下もそのあたりで階段の踊り場に着いたように痛感する。会社での居場所も、そのあたりで変化する。課長、部長、局長、役員てな感じ。それを「知ったことか」と我が道を行くのは確かに組織人ではない。 ところが、そんなわがまま者がいないと組織が活性化しない。分かりやすい例で言えば、映画「無責任男シリーズ」の植木等演じるキレたサラリーマンである。周囲は植木の言動に「いいかげんにしてくれ」とあきれつつ、植木がいてこその所属組織であることを認識している。「男はつらいよ」シリーズの「車寅次郎」と「本家くるま菓子舗」でもいい。 もっと生物的な「共生」で説明すれば、映画「平成ガメラシリーズ」の2作目「ガメラ2 レギオン襲来」に登場したレギオンと草体の関係のようなものだ。派手で目立ち過ぎの花を咲かせる草体と、せっせとその開花準備を整える黒ずくめの働きアリのようなレギオン。一見無関係に見えるこの2種類の生物は、お互いの生存によって種が維持される。だが、現代は「派手な遊び人は要らない、言うことをきく労働者だけが欲しい」と身も蓋(ふた)もない。レギオンだけが社会に有用とみなしている。この視点に社会全体の生命連関を見通す力は備わっていない。 タカ&ユージは「サラリーマン植木」や「寅さん」であり、舘と柴田は現代社会に「開花した草体」なのだ。年を重ねると力尽きる働きアリには、派手で自由で若々しいタカ&ユージが必要なのだ。でなければレギオンでいることすら許されないではないか。