「実質賃金」引き上げの“公約”は画期的だが、価格転嫁では実現しない
● サービス産業の内容が一変する必要 実質賃金引き上げとは経済構造の大改革 日本でこれまで生産性が低下してきたのは、製造業の比率が低下したからだ。 だから、製造業の比率が上昇すれば賃金は上昇し、実質賃金も上昇することになるだろう。ただし、中国が「世界の工場」として競争力を持っている中で、それが可能かどうか、また日本にとって望ましいかどうかは大いに疑問だ。 必要なのは製造業の中身を転換していくことだ。例えばファブレス化していくことだ。 このような製造業の転換は決して容易なことではないが、できないわけでもない。 これを実現したのが台湾だ。台湾の製造業はTSMCに見られるように世界的な水平分業の一環として成長している。そして極めて高い生産性を実現している。 したがって、中国工業化以後の世界でも、高い生産性を持つ製造業を作ることは原理的には可能なのだ。問題は、日本がそうした転換を行わなかったことだ。 雇用者で見れば、サービス産業の比率が上昇している。問題はサービス産業の内容だ。例えば、コンピュータのプログラミングとか金融サービスといった生産性の高いサービス産業の比率が上昇しているわけではないことだ。中身は介護や宿泊・飲食サービス、その他の対面サービスなど、生産性が低いサービス産業だ。 このように、生産性の低い部門の雇用が増えていることが、経済全体としての生産性を低下させる基本的な要因だ。こうした分野でも、デジタル化の促進によって生産性を上げていくことはできるだろうが、限度があると考えざるを得ない。 サービス産業でも重要なのは、新しいタイプの産業を成長させることだ。それは決して不可能ではない。むしろ、そのような転換が世界のさまざまな場所で起こり、それが世界経済を大きく変化させていったのだ。 その典型的な例は、アイルランドに見られる。それまで農業国だったアイルランドは、新しいIT関係のサービス産業を成長させた。そしてそれまでヨーロッパで最も所得の低い国だったが、最も高い国になった。 もう一つの例がアメリカだ。それまでの製造業が比重を減らしファブレス産業が発展した。Appleがその代表的な例だ。これはいわば工場のない製造業であり、実体的にはサービス産業と考えることができる。もう一つの例として、NVIDIAを挙げることができる。これが台湾のTSMCと共同して、世界的な水平分業の体系を作り上げていった。それによってアメリカの生産性が上昇した 実質賃金を引き上げるというのは、生産性の高い分野を拡大させたり、あるいは生産性の低い分野の仕事のやり方を変えていくということであり、経済全体の構造を大きく変えていくことだ。日本で行われているように価格転換を容易にして賃金を上げるという方向とは全く違うものだ。 そのような大転換が行われない限り、実質賃金の引き上げという課題は達成できない。 (一橋大学名誉教授 野口悠紀雄)
野口悠紀雄