「太陽族」に綿矢りさ、落選した太宰治…150回を迎える芥川賞・直木賞
文壇スターの輩出機関
とはいえ、芥川賞の大半はそこそこの新人であり、それがときおりの起爆剤になっている。とくに鮮度のよい学生ルーキーの受賞は「文春事務所のゴリ押し」ではないにせよ、メディアにかっこうのネタを提供してきた。文壇スターの誕生である。 その嚆矢(こうし)は、『共食い』で受賞した田中慎弥から「都知事閣下のために、もらっといてやる」とエールを送られた都知事閣下こと石原慎太郎であろう。「太陽族」という流行語も生んだ受賞作『太陽の季節』(1955年)で、いちやく文壇のスターとなり、やがて右派論壇・政界のヒーロー(あるいは暴走老人)へと華やかな転向を遂げた。 若い女子となると、殿方の好奇の目も加算される。2003年の第130回は、綿矢りさ(19歳)、金原ひとみ(20歳)と、テレビ映えする女性のダブル受賞でわき、受賞最年少記録を更新した綿矢の『蹴りたい背中』はミリオンセラーになった。これは村上龍の『限りなく透明に近いブルー』以来の快挙だった。
落選者の悲哀と憤怒
このように「人気作家の登龍門」とされる両賞だが、村上春樹をはじめ、龍の門にはばまれた作家も少なくない。なかでも島田雅彦は、芥川賞に6度ノミネートされながら、すべて落選した。しかし、現在は芥川賞の選考委員を務めており、昨年は『島田雅彦芥川賞落選作全集』なる自虐タイトル本も出版している。 直木賞に落選した筒井康隆は、「怨嗟の結晶」ともいえるスプラッター小説『大いなる助走』(1979年)で文壇や選考会を嘲弄(ちょうろう)し、大御所や選考委員を血祭りに上げた。他方、こうした諧謔(かいぎゃく)に昇華できず、恨みをあらわにした作家もいる。 生活に窮していたこの作家は第1回芥川賞に、いや賞金の五百円にかけていた。落選後、候補作を酷評した川端康成を名指しして、ある雑誌に「刺す。そうも思った。大悪党だと思った」という憤怒の文章を投稿している。一方、好意的な選考委員の佐藤春夫には「たのみでございます。(芥川賞をもらえれば)どんな苦しみとも戦って、生きて行けます」と懇願の書簡を送っている。 しかし、その願いが叶うことはなかった。当初の芥川賞は、一度候補になった者は除外される決まりになっていたのだ。第1回「芥川賞失格」になったこの作家とは、虚構の彷徨の末、玉川上水に身を投じた太宰治である。 (フリー編集者・大迫秀樹)