「キャリアの敗北」を重ねて、木村敬一がたどり着いた場所…パリは「自分がどこまでやれるか追及したい」
東京パラリンピックで悲願(ひがん)の金メダルを獲得した全盲(ぜんもう)のスイマー、木村敬一さん(33)。長い競技生活で大切にしてきたことや、今夏に迫ったパリ大会への意気込みを聞いた。(読売中高生新聞編集室 高田結奈)
進学先は日大へ
「高校1年の後半から上半身を集中的に鍛(きた)え、平泳ぎでストロークのテンポを上げる泳ぎ方に変えました。フォームを改善(かいぜん)したことで一気に記録が伸び、高2になると100mの自己ベストが10秒くらい縮まりました。これまでのパラリンピック出場選手の記録と比べて、『これなら出られるかもしれない』と手応えを感じ始めたのもこの頃です。そして、初めてパラの舞台に立てたのは、高3の夏。北京大会でした。観客の多さや遠征期間の長さなど、これまでの国際大会とは全然違って、レース中の記憶もあまりないまま、気がついたら終わっていました。
卒業後の進学先は日本大学に決まり、初めて一般の学校に通うことになりました。特別支援学校という“守られた世界”から飛び出していくのは、やっぱり不安で怖かったです。ただでさえ大学は自由ですから、自分から積極的に友だちを作っていかないとしんどくなると思いました。でも、講義や水泳サークルを通じて、交友関係は広がっていきました」
転機となったのはリオ大会での挫折(ざせつ)。環境を変えようと、アメリカに渡ることを決意する。
「銀と銅メダルを取ったロンドン大会後の4年間は、やれることは全てやったつもりです。競技を続ける以上は、ステップアップするべきですから、次のリオ大会では当然、金メダルを目指しました。でも、メダルの数が増えただけで、結局は銀止まり。スポーツでは必ず勝者と敗者が生まれますが、僕は常に敗者の側で、金メダルを取れない人間なんじゃないかと落ち込みました。
どうすればいいかわからないし、かといって競技を引退する気にもなれません。それなら、いっそ環境を変えようと、アメリカ行きを決意しました。異国でのトレーニングは、練習メニューひとつを聞き取るのにも必死でしたし、日本にいるときとは気合や集中力が全く違って、充実した約2年間を過ごしました」