“酸っぱいブドウ”それもまた良し 好きなことに打ち込んでいても開ける世界
日本代表は残念ながら敗退してしまいましたが、世間ではサッカーワールドカップの話題が盛り上がっています。しかし、わたしはスポーツにはあまり関心がありません。あまのじゃくを気取っているわけではなくて、子供のころからわたしはスポーツが苦手なのです。どれくらい苦手だったかと言えば、小学校6年間を通して体育の評価は「2」でした。 苦手だから、「あんなもの、どうでもいいや」と関心をなくす、これはいささか軽蔑を込めて “Sour grapes”「酸っぱいブドウ」と呼ばれます。キツネがブドウを取ろうとして手が届かないので「あのブドウは酸っぱいから食べなくてもいい」と言って立ち去るイソップ寓話をもとにした表現です。だけど、苦手なものを避ける態度をそこまで非難、軽蔑しなくてもいいだろうと思います。 ブドウだけが果物ではないし、そのブドウの木だけがブドウの木でもないのだから、わざわざ手の届かないものを未練がましく手に入れようとしなくてもいいのに、とわたしは思います。
「艱難汝を玉にする」ではなくて、「艱難汝をダメにする」
苦手なものに無理矢理、チャレンジして無駄な努力を重ねるよりも、得意なものに力を集中して確実な成果を手にする方が幸せではないでしょうか。自分が幸せなだけでなく、周りからもありがたがられるはずです。何といっても、成果(結果)を出しているのですから。「好きこそものの上手なれ」ということわざもあります。 もっとも、「艱難(かんなん)汝を玉にする」という格言もあって、苦手なものを苦労して克服することを良しとする価値観も世間にはあります。だけど、人の世の現実をいろいろ見てきた身としては「艱難汝をダメにする」ことも多いと思ってしまいます。 常識的に考えても、失敗体験を繰り返していては、やがて気持ちが萎え、自己評価が下がり、持てる力も発揮できなくなるでしょう。実際、心を病む人の中には、よりによって苦手なこと、不向きなことばかりチャレンジして、挫折と失敗の歴史を繰り返し、ますます心の傷を深くしている人がいます。 あるいは、実現不可能な欲望や執着にとらわれ続けて、みすみす自分で自分を(そして時には周りの人たちも)不幸にする人も。そんな人には、「無理して苦手なこと、自分に不向きなこと、自分の手に負えないことにチャレンジしないで、好きなこと、得意なこと、自分にできそうなことに取り組んでみれば」とアドバイスします。ごくまっとうなアドバイスだと思うのですが、意外に抵抗されるというか、すんなり受け入れてもらえないことがあります。なぜなのでしょうか?