豊臣秀吉の「情けない片想い」 蒲生氏郷の妻に迫り、拒まれてブチギレ
農民出身である秀吉は「お嬢様」がタイプで、信長の妹・お市の方に執着していたと言われる。秀吉は、信長の次女・冬姫にも片想いをしていたが、冬姫は蒲生氏郷(がもう・うじさと)に嫁いでしまう。その後、夫の氏郷が早逝すると、秀吉は未亡人になった冬姫にアプローチをするのだが……。 ■「お嬢様」がタイプだった秀吉 豊臣秀吉には数々の側室との逸話がありますが、秀吉から望まれれば、みな嬉々として側室の座に収まったのでしょうか。そんなはずはなく、やはりモラハラ、パワハラといえるような事件も起きていました。 江戸時代初期の歴史書をベースに、江戸後期に編纂された『改正三河後風土記』には、蒲生氏郷の未亡人から、長年に渡る片思いを拒絶されてしまった豊臣秀吉との気になる逸話あります。 蒲生氏郷の未亡人とは、織田信長の次女に生まれた氏名不詳の女性で、一説に冬姫と呼ばれてきました。現代では彼女をそう呼ぶのは史料の誤読ともいわれますが、本稿では理解しやすさを重んじ、冬姫の呼称を採用します。 永禄12年(1569年)、冬姫は12歳の若さで蒲生家の嫡男・氏郷のもとに嫁ぎました。このとき、氏郷はまだ14歳です。結婚の直前に迎えた初陣での活躍を信長から褒められ、「只者にては有るべからず(『蒲生氏郷記』)」と評されたホープでした。冬姫を与えられたのも信長からの高い期待あってのことでしょう。 しかし、冬姫はすでに秀吉から注目されていたそうです。農民出身である秀吉は「お嬢様」が大好きで、信長の妹(一説に姉)のお市の方への執着が有名ですが、冬姫にも目を向けていたようですね。 ■冬姫を手に入れられず、周辺女性をつぎつぎと側室にした 「本能寺の変」で信長が亡くなり、天下を秀吉が引き継いだ後、蒲生氏郷は若手ながら頭角を現します。会津若松に92万石もの領地を有するほどになった有能な武将ですから、いかに秀吉とはいえ、氏郷に正室・冬姫を譲ってほしいとは頼めなかったようです。 しかし、不気味なことに、秀吉は冬姫には手出しできない代わりに氏郷の妹や、冬姫の周辺にいた信長の6女で、三の丸殿と呼ばれた女性などをつぎつぎと側室に迎えていきます。 冬姫にとって不幸だったのは、夫・氏郷の若すぎる死でした。文禄4年(1595年)2月7日、蒲生氏郷が40歳で亡くなってしまいます。秀吉の朝鮮出兵に従軍中に体調を崩したまま、帰国した後の死でした。 秀吉は優秀な部下・石田三成に冬姫を調査させ、「(すでに38歳であるにもかかわらず)いまだに十代の色香を残している」などという報告を得ると、冬姫に「都から遠い会津若松での未亡人生活はおさみしいでしょう。遊びにおいでなさい」という手紙を書き送りました。 ■下心マンマンな書状に、冬姫が出した「答え」 下心が読み取れる秀吉の書状に冬姫は困惑しましたが、「これも亡き氏郷公の妻としての最後のご奉公だ」と家臣たちから諭され、京都に向かいます。 しかし……秀吉が対面した冬姫は、出家した尼姿でした。そこまでして想いを拒まれた秀吉は相当頭に来たらしく、その場では淀殿にも引き合わせて冬姫を歓待したものの、冬姫が会津に戻ってしばらくしたタイミングで、蒲生家の所領を5分の1にまで減らしています。 真偽は不明ですが、氏郷の死後の大減俸について、蒲生家では「冬姫から拒まれた秀吉によるパワハラが原因だ」と語り継いでしまったことだけは確かなようです。
堀江宏樹