明治期から148年の歴史を刻んだ「旧渋沢邸」が青森から東京・江東区に里帰り―壁や調度まで克明に再現した内部の写真もたっぷり
歴史小説やドラマの中では、栄一と三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎はライバルで、犬猿の仲として描かれることが多い。しかし、孫の敬三が中学の同級生の妹として知り合った妻・登喜子は、弥太郎の次女の娘だった。2人が結婚したのは1922年なので、同年製造のピアノは、岩崎家からの結婚祝いだったのかもしれない。
栄一と弥太郎は経営思想は違えども、互いの能力を認め合っており、栄一が敬三の結婚に反対することも一切なかったと伝わっている。そして、弥太郎のひ孫でもある雅英氏を抱き、いとおしそうな表情を写真に残した。こうした史実を伝える旧渋沢邸は、歴史ファンにとっても貴重な場所といえるだろう。
大切に守られ続ける旧渋沢邸
なぜ青森に移設され、清水建設が譲り受けたのかについても触れたい。建物の老朽化によって、三田共用会議所の解体計画が持ち上がった際に、払い下げを願い出たのが、当時、十和田観光開発の社長だった杉本行雄だった。杉本は栄一の時代に渋沢家の書生となり、敬三の時代には秘書や執事を務めた。戦後、渋沢家の農場があった青森県十和田市に移住し、温泉開発やホテル運営で成功を収めていた。 栄一が暮らした兜町の洋館は関東大震災で全壊し、飛鳥山の居館も戦火に焼かれ、残ったのは離れの青淵文庫と晩香廬(ばんこうろ)だけだった。杉本は元主人らが暮らした貴重な居住空間を保存するため、自分が経営する古牧温泉渋沢公園内に1991年に移設する。だが、十和田観光開発や古牧温泉は2004年に経営破綻。旧渋沢邸は後に清水建設が譲り受けることになったのだ。 清水建設にとっても、栄一は単なる施主ではない。3代・満之助が1887(明治20)年に急逝した際、4代目がまだ8歳だったため、栄一に相談役就任を依頼。その後、30年にわたって経営指導を受けたという。さらに2代目当主・喜助が手掛けた建物で現存するのは、旧渋沢邸の表座敷だけになっていた。社の混乱期を支えた功労者が住み、2代目の技を伝える建物は、創業の原点やイノベーティブな精神を学ぶのに格好の遺構なのだ。 そうした経緯で旧渋沢邸は、清水建設の未来を担う施設「NOVARE」の中心に据えられ、取材時にも社員が見学に訪れていた。今後「NOVARE Archives(清水建設歴史資料館)」と共に一般公開を予定しているが、開始日は未定となっている。旧渋沢邸の外観は、運河沿いに整備された「潮見しぶさわ公園」からも見えるので、近くを訪れた際には立ち寄ってみてほしい。日本一の高層ビル「麻布台ヒルズ森JPタワー」を建設した会社が、明治初期に手掛けた邸宅を眺めるのは一興だろう。 撮影=土師野 幸徳(ニッポンドットコム編集部)
【Profile】
土師野 幸徳(ニッポンドットコム) 出版社勤務を経て、現在はニッポンドットコム編集部チーフエディター。主な担当は「旅と暮らし」。「レゲエ界に革命を起こしたリズム“スレンテン”は日本人女性が生み出した:カシオ開発者・奥田広子さん」で、International Music Journalism Award 2022(ドイツ・ハンブルグ開催)の英語記事部門において最優秀賞を獲得。