明治期から148年の歴史を刻んだ「旧渋沢邸」が青森から東京・江東区に里帰り―壁や調度まで克明に再現した内部の写真もたっぷり
生涯、深川を愛し続けた栄一
1873(明治6)年、33歳で大蔵省を退官。自身が設立に関わった第一国立銀行(みずほ銀行の前身)の総監役を務めながら、数多くの会社設立・運営に関わっていく。
当初は銀行のある兜町の借家に住んだが、事業が軌道に乗り始めた1876年、深川に2800坪強の土地と建物を購入して転居。当時の第一国立銀行社屋は「擬洋風建築の傑作」と称され、浮世絵にも描かれたほどだったので、それを手掛けた清水屋(現・清水建設)2代目の清水喜助に依頼し、建坪170坪の母屋「表座敷」を建造する。庭には海水を取り込むことで水位が変化する「潮入りの池」があるなど、自然豊かな邸宅だった。
栄一は深川で12年間過ごした。その後、兜町に辰野金吾設計の豪華な洋館を建て、晩年は北区王子の飛鳥山で暮らしたことが知られている。
ただ、兜町に移り住んでからも深川区会議員となり、議長も務めた。飛鳥山時代にも深川区教育会会長に就任。そして生涯、本籍は深川に置き続けたという。それだけ思い入れの強い土地だったのだから、今回の旧渋沢邸の江東区帰還を栄一も喜んでいるだろう。
跡取り・敬三の暮らし伝える洋館
篤二や敬三の住居となった深川の渋沢邸は明治時代中期、東側に敬三の母が暮らす「御母堂」を建てるなど増改築を繰り返す。1908年には、深川の地から三田へと移築した。
渋沢家4代が勢ぞろいする有名な写真は、ロンドンに赴任していた敬三一家が帰国した1925(大正14)年、三田の渋沢邸で撮影したもの。ひ孫の雅英氏と対面し、栄一が優しい表情を浮かべているのが印象的だ。
三田時代の1930(昭和5)年、西側に洋館を増設するなど、現在の和洋折衷の独特な建造物へと変貌。洋館は主に敬三夫妻の生活空間で、家具や調度品の一つ一つから、海外駐在を経験した敬三ファミリーの豊かでハイカラな暮らしぶりがうかがえる。
客間に置かれるピアノにまつわる話は興味深い。世界三大ピアノに数えられるベヒシュタインが1922年に製造したもので、今回の再築に伴って完全修復した。その際に、ドイツ本社が販売記録を確認したところ、注文主の欄には「三菱」と記されていたのだ。