戦艦「三笠」と日本海海戦
このビールは最初はフィンランドの醸造所が作っていたが、その権利は現在では英国の会社が所有していて、日本では輸入ビールとして入手可能である。私好みのピルスナーで、いかにも正統派の味がする。 ■日本海海戦に参加した山本五十六の戦略と戦術 日本海海戦の大勝利をきっかけに大国ロシアを相手に勝利した日本は、その後軍事力を急激に増強させ列強に伍する国となったが、不安定な世界状況の中で、破滅的な先の大戦へと突き進んでいった。 その大戦時に連合艦隊司令長官となった山本五十六は、若き頃、日本海海戦で装甲巡洋艦「日進」に乗船していて、ロシア艦隊の砲弾の炸裂により負傷し、左手の二本の指を失った。艦船同士のでの対戦では10インチを超える大砲による撃ち合いになるのが通常で、10センチ以上もある装甲板を突き破る砲弾の炸裂には想像以上のものがある。戦艦 三笠の前には実際の砲弾と、その炸裂によってめくれ上がった装甲板の破片の実物が展示されている。見るだけでその衝撃のすごさが伝わってくる。山本五十六は先の大戦時には東郷元帥と同じように連合艦隊を率いる地位についたが、日本が大国アメリカを相手に開戦することには最初から反対だった。山本には海外留学の経験もあり、海軍力を大国間で話し合うワシントン軍縮会議にも日本を代表して出席した。アメリカを代表とする欧米の軍事力については充分な知識を持っていて、アメリカを相手に戦争を仕掛けることの無謀さを充分に理解していた。 しかし、開戦やむなしということになれば、初戦で勝利をおさめできるだけ早く講和条約に持っていくというのが山本の戦略であった。山本は空母6隻を中心とする大艦隊を北海道のはずれ択捉島、ヒトカップ湾に終結させ、その後太平洋を横断して真珠湾を急襲するという大胆な戦術で初戦に勝利したが、その後戦争が長期化するにつれて圧倒的な戦力を有するアメリカに対し戦線はみるみる後退していった。そうした中、山本は南方の前線基地を兵の激励のために精力的に回ったが、ソロモン諸島で飛行中、米機の攻撃にあい戦死した。その2年後、日本は無条件降伏し戦争は終結した。 横須賀に戦艦 三笠を訪ねた経験はいつまでも私の記憶に残るものとなった。 ■ 吉川明日論 よしかわあすろん 1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、2016年に還暦を機に引退を決意し、一線から退いた。
吉川明日論