『ゴジラ-1.0』モノクロ版で生じた光と陰 山崎貴の“人工的世界観”が浮き彫りに
『ゴジラ-1.0』の勢いが止まらない。観客動員数は約400万人、興行収入は50億円の大ヒット。熱狂は日本だけにとどまらず、アメリカでも約5000万ドルの興行収入を記録。日本映画実写作品の歴代記録を塗り替えた。日本映画としては初めて、アカデミー賞の視覚効果賞ノミネート候補10作品に選出されるなど、技術面でも高い評価を受けている。 【写真】黒煙のなか大咆哮するゴジラなど(複数あり) そして1月12日からは、『ゴジラ-1.0』のモノクロ映像版となる『ゴジラ-1.0/C』が公開された。山崎貴監督は、「ただモノクロにするのではなくそれこそカット単位で、新たな映画を創り上げるくらいの勢いでさまざまなマットを駆使しながら調整してもらいました」とコメント。(※1)漆黒のゴジラが、より禍々しさを増してリボーンした。 『LOGAN/ローガン』(2017年)や『パラサイト 半地下の家族』(2019年)など、もともとカラー映画として作られた作品を、モノクロ映画として蘇らせる試みは数年前からのトレンドでもある。全世界を熱狂させた『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)も、そのひとつ。かねてよりモノクロバージョン制作への意欲を抱いていた監督のジョージ・ミラーは、念願叶って「ブラック&クロームエディション」を2017年に公開している。 アイデアのきっかけは、『マッドマックス2』(1981年)制作時まで遡る。コントラストの強いモノクロ版に合わせて、オーケストラによるスコアをレコーディングしていたとき、彼に天啓が閃いた。 「私は映像がより“象徴的”で、より“本物”であることに衝撃を受けた。それ以来、マッドマックスの映画をモノクロで観たいと思うようになったんだ」(※2) ギレルモ・デル・トロ監督もまた、サスペンススリラー映画『ナイトメア・アリー』(2021年)のモノクロバージョンを発表。そもそもオリジナルの『悪魔の往く町』(1947年)が蠱惑的なノワール作品だったということもあり、闇と光のヴィジョンは完璧にマッチした。 「私はそれに魅了された。そして編集するときに、後半は全部モノクロで見始めたんだ。そして、もしかしたらできるかもしれないと思ったんだよ。皆に見せて、“ああ大変だ、両方の公開ができたらいいのに!”と言い続けたんだ」(※3) リグレーディングによってモノクロの世界に還元されたフィルムは、白黒のコントラストが強調されることで、ルックとしての鮮烈さが増し、えも言われぬ寂寥感が強調される。アルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA/ローマ』(2018年)、ロバート・エガース監督の『ライトハウス』(2019年)、デヴィッド・フィンチャー監督の『Mank/マンク』(2020年)など、名だたるビジュアリストたちがモノクロ映画を手がけているのも、ブラック&ホワイトの抗いがたい魅力に気づいてしまったからだろう。 モノクロ映像版として新たなルックを獲得した『ゴジラ-1.0/C』は、通常版よりもはるかに禍々しいディザスタームービーとして蘇った。何よりもゴジラ自体が、破壊神として圧倒的な存在感を放っている。起伏のある山々や岩石が、白黒のハイコントラストによって質量感が強調されるように、ゴツゴツしたゴジラの姿がカラー版以上に存在感を増しているのだ。銀座の街を悠々と闊歩するゴジラの姿は、鮮烈なビジュアルとして我々の脳裏に焼き付けられる。巨大なキノコ雲をバックに、焼け野原となった銀座に佇む破壊神の姿は、本作のハイライトのひとつに挙げられるだろう。 その凛とした佇まいから、“昭和系女優”と呼ばれることもある大石典子役の浜辺美波が、モノクロ映像になることによって、高峰秀子や原節子のようなリアル“昭和系女優”に接近しているのも面白い。個人的には、典子が赤ん坊の明子に白いスプーンで食事させているシーンが印象に残った。それは、娘に命を吹き込むシンボルとして、漆黒の画面でよりくっきりと浮かび上がる。カラー版ではなかなか気付くことができない、モノクロ版ならではの効用と言うべきだろう。 ただ、表現が非常に難しいのだが、『ゴジラ-1.0/C』は禍々しくはあっても、決して生々しくはない。モノクロになることによって、山崎貴監督作品に通じる“人工的世界観”が、逆に浮き彫りになってしまっている。 ■仮想空間としての「戦争直後」 おそらく山崎貴にとって、『BALLAD 名もなき恋のうた』(2009年)で描かれるような戦国時代も、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(2010年)で描かれるようなSF的未来も、『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズで描かれるような昭和30年代の東京下町も、同じ仮想空間として接続している。少なくとも筆者の目には、三丁目の世界は昭和ノスタルジーの発露として生まれた、アミューズメントパークのように見えてしまう。 もちろん、そのアプローチ自体が間違っている訳ではない。リアリズム(生々しさ)を追求することと、映画のエンターテインメント性は比例しないからだ。『ゴジラ-1.0』の舞台設定は、太平洋戦争直後。『永遠の0』(2013年)や『アルキメデスの大戦』(2019年)でも扱われていた時代だが、山崎貴の関心はその時代をヴィヴィッドに再現することではなく、「重巡洋艦高雄を映画に登場させたい!」という、戦艦オタクとしての無邪気な欲望に突き動かされたに過ぎない。 映画ではゴジラと高雄が対決するのは1947年という設定だが、実際には高雄は1946年の時点で自沈しているから、歴史考証としては間違いということになる。だが、それはそれで構わない。山崎貴によって構築された仮想空間としての「戦争直後」という時代に、ゴジラという怪獣をどのように配置していくかが、重要なのだから。『ALWAYS 続・三丁目の夕日』(2007年)の冒頭で、夢のなかでフルCGゴジラが暴れまくるシークエンスがあったが、まさしく同じようなアプローチで、山崎貴は怪獣映画というフィクションを『ゴジラ-1.0』に拡張させたのだろう。 2023年11月3日に公開されるやいなや、「演技は過剰だし全てが説明セリフ」という、いつもの山崎貴演出術に多くの批判の声があがった。筆者も実際にその通りだと思う。だが、山崎的仮想空間において、リアリズム演技の方が逆に不自然なのではないか? そのような理解の仕方をして、批判を呑み込みながら鑑賞していた。筆者は『ゴジラ-1.0』を、破格の怪獣映画として高く評価している。 『ゴジラ-1.0/C』が不幸なのは、モノクロ版になることで偉大なる第1作目『ゴジラ』(1954年)と容易に比較されやすくなり、ファンタジーとしての仮想空間ではなく、生々しい「戦争直後」が求められるルックに変貌していることだ。ゆえに「演技の過剰さ」「説明セリフ」という問題も相対的に浮かび上がってしまう。筆者は、主人公・敷島を演じる神木隆之介の芝居がかった演技が、通常版よりもキツく感じてしまった。 ゴジラの熱線によって瓦礫の山と化しているのに、なぜひとつも死体がないのか。多くの負傷者で野戦病院と化しているはずなのに、なぜ病院はあまりにも清潔でほとんど人がいないのか。山崎貴による周到なリアリズムの回避が、モノクロ版ではマイナスに作用している。 モノクロ映像によって強調された禍々しさと、露呈してしまった人工的世界感。脅威の映像体験として筆者は『ゴジラ-1.0/C』を全力でオススメするものの、数々の問題が可視化されていることも付言しておきたい。 ■参考 ※1. https://realsound.jp/movie/2023/12/post-1524273.html ※2. https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/features/mad-max-fury-roads-george-miller-interview-black-and-white-sequel-mad-max-fury-road-tom-hardy-charlie-theron-black-and-chrome-edition-blu-ray-a7703051.html ※3. https://www.thewrap.com/nightmare-alley-black-and-white-version-explained-guillermo-del-toro-dan-laustsen/
竹島ルイ