加藤雅也「父にモデルになると伝えたとき、反対されると思いきや…思わぬ反応に自分を恥じた。パリコレに出て俳優の道を決意」
◆父の器の大きさを知ったバスの車中 大学では教職課程をとってはいたものの、なんとなく自分には教師の世界は向いていない気がしていました。なので倉谷さんとの出会いがなかったとしても、教師になっていたかどうかはわかりません。反対にモデル業は面白く、『メンズノンノ』の創刊号のモデルに採用されるなど、頑張ったら頑張っただけ結果が出ました。僕としては、できれば大学卒業後もモデルの仕事を続けたいと考えていました。 それにはまず、父を説得しなくてはいけません。うちの父はごく普通のサラリーマンで、芸能の世界とは縁のない人です。奈良から仕送りして僕を大学に通わせてくれました。そんな父がモデルという、海のものとも山のものともつかない仕事を許すはずがないと思っていました。 そこで僕が考えたのが、この話を実家ではなく、バスに乗っている時に切り出すことでした。周囲に人がいる状況なら、父も僕を怒れないだろうと思ったのです。 バスの中で、恐る恐る話を切り出した僕に対する父の言葉はこうでした。「やりたいことがあるならいいじゃないか。好きなようにやればいい。問題にぶつかったら今まで勉強したことを使って判断すればいい」 父は、生まれてすぐの0歳の時に両親を亡くしています。ずっと苦労してきた人なので、自分の息子には安定した道を望んでいるだろうと勝手に思い込んでいたのです。それがそんなふうに言ってくれるなんて……。父の器の大きさを知るとともに、「自分は人間が小さいなあ」と大いに自分を恥じました。
◆運とは、自ら動くことでつかむもの 昔ある人に「加藤、運っていうのはな、自分の体をその場所に運ぶってことなんだ。だから動いたら動いただけの出会いがあって、それが自分に返ってくるんだぞ」と言われたことがあります。これは本当で、運というのは自ら動くことでつかむものだと強く実感しています。 『メンズノンノ』との縁もそうでした。当時『メンズノンノ』は『ノンノ』増刊号として出版されていましたが、僕は「いずれ単体で刊行されるのではないか」と予測したのです。そこで「もしも創刊号が作られることがあったら、ぜひオーデションに呼んでください」と編集部に電話をかけて売り込んだところ、一人の編集者さんとお会いできることになりました。その後、実際に創刊が決まった際に「まだ他の雑誌に出ていないフレッシュさがいい」と僕を選んでくださったのです。 1987年にパリコレに挑戦した時も、飛行機代や滞在費用を含め最低でも100万円ほど必要だったので悩みましたが、一度は世界最高峰のコレクションに出てみたかった。現地でエージェント探しから始め、その結果、2つのショーに出演することができました。しかし、当時は身長180センチ後半で筋肉隆々のモデルが主流だったため、それより低い自分の身長では一生モデルを続けるのは難しいと感じ「これを最後にモデルは辞めて、身長や体格は関係ない役者という表現者の道に進もう」と考えました。 運が悪いとか出会いがないと思っている人は、自ら動くのはもちろん、その際にちょっと行動範囲を変えてみることをおすすめします。今まで行ったことのない場所に行ってみるとか、自分とは合わないと思っている人と交流してみるとか。ふだん自分が生きている世界だけでなく、別の世界にまで範囲を広げることで思わぬ出会いやヒントが得られることがあります。 (構成=上田恵子、撮影=本社・奥西義和)
加藤雅也
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