五兵衛と五兵衛足して十兵衛? 大阪人名地名を探る
天下の台所の基礎を築いた豪商淀屋
芝居つながりで、北区曽根崎のお初天神へ。劇作家近松門左衛門が実話に基づいて書き下ろした悲劇「曽根崎心中」のヒロインがお初。現在もお初をまつるお初天神には、恋の成就を願う男女の参拝が絶えない。 参道沿いの商店街が「曽根崎お初天神通り」。アーケード入り口で、文楽人形仕立てのお初が出迎えてくれる。 土佐堀川に架かる重要文化財の淀屋橋。大坂の豪商淀屋が中之島に設立した米市場のために、私財を投じて橋を架けたのが始まりだ。米市場は「天下の台所」大坂の経済発展の基礎を築き、淀屋に繁栄をもたらした。 しかし、淀屋5代目の時代、あまりのぜいたくぶりが幕府にとがめられ、闕所(けっしょ)処分を受け、財産を没収され没落する。この闕所処分のインパクトが強いためか、のれん分けを許された番頭が淀屋を再興し、度重なる社会の荒波を乗り切って長く商いを営んだことはあまり知られていない。
五兵衛と五兵衛を足して「十兵衛横町」
中央区今橋の市立開平小学校の南側に、「十兵衛横町」の顕彰碑が立つ。しかし、十兵衛なる人物が実在していたわけではない。 江戸期、ご当地は両替商が軒を並べる金融街だった。今も証券会社などが面影を残す。1670年、幕府が十人両替制度を確立。ご当地には両替商最大手の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の二軒が、道をはさんで店を構えていた。 町人たちは五兵衛と五兵衛を足して、「十兵衛横町」と呼ぶようになったという。厳格な商いの中にも、ユーモアを忘れない。大阪人のエスプリといえようか。
新田の名称がそのまま町名に
市営地下鉄四つ橋線「北加賀屋駅」。周囲を歩くと、北加賀屋に加え、東加賀屋、中加賀屋、西加賀屋、南加賀屋と、加賀屋地名のエリアが広がる。江戸期、加賀屋甚兵衛が開拓した広大な加賀屋新田にちなんだ町名だ。 南加賀屋の加賀屋緑地では、市内で唯一残る新田会所跡の遺構が鑑賞できる。数寄屋造りの名建築で、2階の部屋は四方に窓が設けられ、大きく開け放つことができる構造になっている。 淀屋が先駆けとなった堂島米相場の値動きが、旗を振る手旗信号のリレー方式ですばやく各地方へ送られていった。加賀屋新田会所でも2階で堂島からの手旗信号を受け取り、さらに次の受け手へ信号を伝えた可能性があるという。 会所の周りには堀が巡らされていた。会所の女性たちが船に乗り込み、水路をゆっくり進みながら道頓堀へ芝居見物に出かけたそうだ。海沿いにある新田が、市内中心部の堂島や道頓堀ともつながっている。堂島の商いに活気が出れば、道頓堀もにぎわう。人名地名で辿る大阪は懐が深かった。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)