五兵衛と五兵衛足して十兵衛? 大阪人名地名を探る
これまで何度か「大阪難読地名シリーズ」をお伝えしてきたが、今回は大阪市内を歩きながらふと気づいた「人の名前の付いた」人名地名を集めてみることにした。「十兵衛横町」には、十兵衛さんが実在していたわけではない。地名誕生の瞬間、大阪人のネーミング感覚が冴えわたる。キタの「淀屋橋」、ミナミの「道頓堀」、海沿いの「北加賀屋」といったトライアングルには、意外なつながりがあった。そんな人名地名の数々を紹介する。
観光客の足元に刻まれた「心斎橋」
南北を貫く心斎橋筋商店街を、東西に横切る長堀通。周囲には高級ブランドショップが立ち並ぶ。信号が変わると、買い物客や外国人観光客が足早に行き交う。足元に古い橋の親柱が残っていることに、ほとんどだれも気付かない。 石造りの親柱には、達筆で「心斎橋」と刻まれている。地名にも定着した心斎橋が架かっていた場所だ。かつては長堀川が東西に流れ、心斎橋は文字通り、南北の繁華街を結ぶ架け橋だった。 1615年の大坂の陣終結後、徳川幕府は荒れた城下町の再興に取り組む。幕府の了解を得て、岡田心斎らの町人が長堀川を開削。岡田心斎が長堀川沿いの店舗の前に架けた橋が心斎橋で、歳月が流れるうちに周囲のまちも心斎橋と呼ばれるようになった。 昭和初期の心斎橋にはガス灯がともり、最新ファッションで闊歩するモダンガールたちを照らし出していた。その後、都市計画に伴い、長堀川は埋め立てられ、橋も撤去されたが、今も平成のモガたちが軽快に歩き続ける。
大坂の陣を乗り越えて開削に成功
心斎橋筋を人波に揉まれながら南下すると、道頓堀川に出合う。平野郷の町人、安井道頓が1612年、城下町南部を東西に流れる水路の開削に着手。道頓は大坂の陣で戦死したものの、安井一族らが道頓の遺志を受け継いで15年に完成させた。幕府は道頓の功績をたたえ、新たな水路を道頓堀と命名した。 やがて道頓堀一帯には、道頓堀五座を筆頭に大小の芝居小屋が林立し、芝居見物の人たちが詰めかける。さながらなにわのブロードウェーのにぎわいだった。 最近では、道頓堀川に架かる「戎橋(ルビ・えびすばし)」を、心斎橋と勘違いしている若者がいるという。今ごろ岡田心斎と安井道頓は、顔を見合わせて苦笑いしているのではないだろうか。