【最強世代までの軌跡・中編】長谷部誠と本田圭佑が切り開いた「日本代表の主力以外でも海外移籍」の道
前編記事『天才・小野伸二の海外でのステップアップがかなわなかった時代のカベ』に続き、日本人選手の海外移籍ルートを切り開いた男たちの挑戦を振り返っていく。 【名場面プレイバック!】速すぎる…! ヨーロッパでも一時代を築いた長友佑都「圧巻のドリブル」姿 小野伸二(44・札幌)ら黄金世代を中心とした面々が日本人海外移籍の道を切り開いた’00年代後半、それまでとは違った移籍ルートが生まれ始めた。変革のきっかけとなったのは、’08年1月の長谷部誠(39・フランクフルト)と本田圭佑(37)の欧州挑戦ではないか。 長谷部は浦和レッズからドイツ・ブンデスリーガ1部のヴォルフスブルク、本田は名古屋グランパスからオランダ1部のVVVフェンロに赴いたわけだが、2人とも当時は日本代表の主力ではなかった。 長谷部はジーコジャパン時代の’06年2月のアメリカ戦(サンフランシスコ)で初キャップを飾ったが、後を継いだオシムジャパン時代はほとんど招集されていない。本田にしてもオシムジャパン時代にメンバー招集はされたものの、出番はなし。初キャップは岡田武史監督(67)が2度目の指揮官となってからの’08年6月のバーレーン戦(埼玉)だった。 つまり、彼らは「海外移籍は日本代表で実績を積み上げた選手が行くもの」という既成概念を打破して、海外へ出ていったのだ。 長谷部は2シーズン目にドイツ・ブンデスリーガ制覇の原動力となり、地位を確立。その後、ニュルンベルクとフランクフルトでプレーし、40歳を目前にした今も現役を続けている。模範的なトップ選手としてドイツサッカー界からも一目置かれ、誰もがリスペクトする存在になっているのは周知の事実である。 本田も渡蘭から半年で2部降格を余儀なくされたものの、’08-’09シーズンは2部で大躍進。1部復帰の原動力となると同時に、2部各チームの監督とキャプテン投票による年間最優秀選手賞(MVP)を受賞。一気に評価を上げることに成功する。翌シーズン途中の’10年1月にはロシア・プレミアリーグのCSKAモスクワへ移籍。ここでUEFAチャンピオンズリーグ(欧州CL)参戦を果たし、決勝トーナメント1回戦・セビージャ戦の第2レグで直接FKを叩き込み、8強入りの原動力となった。’14年にはACミラン入りし、10番を背負うという偉業も達成した。 「代表の中心として活躍していなくても、日本人選手にはそれ相応の力がある」という事実を示したことは、その後に大きな影響を与えた。 本田の欧州CLでの活躍直後に欧州移籍に踏み切ったのが香川真司(34・C大阪)、内田篤人(35・JFAロールモデルコーチ)、長友佑都(37・FC東京)たちだ。内田や長友はすでに代表サイドバック(SB)のレギュラーをつかんでいたが、香川はJ2・セレッソ大阪所属の21歳の若手。代表歴はあったものの、’10年南アフリカワールドカップ(W杯)も選外となっており、そういう選手がドイツの名門、ボルシア・ドルトムント行きのチャンスをつかむというのは意外に映った。 この頃になると、欧州クラブのターゲットは日本代表のトップ選手ではなく、U-20世代や五輪世代(U-23)ら若手にシフト。「移籍金の安い10代の選手をレンタルで獲得し、成功したら保有権を買い取って高値で別クラブへ売って儲ければいい。使い物にならなければレンタル元のJクラブへ戻せばリスクはない」といった考え方を強めていったのだ。’07年U-20W杯(カナダ)や’08年北京五輪に参戦し、J2でゴールを量産していた若い香川などは格好の人材だったのである。 加えて言うと、当時のドルトムントは’00年代途中の経営破綻から再出発を切り、再建途上の真っ只中。高額の移籍金を支払ってビッグネームを買い集めることはできない。そこで、イルカイ・ギュンドアン(33)やロベルト・レヴァンドフスキ(35・ともにバルセロナ)、マリオ・ゲッツェ(31・フランクフルト)や23歳以下の有望な選手を次々とスカウト。彼らの潜在能力を名将、ユルゲン・クロップ監督(56・現リバプール)が最大限引き出し、’10-’11・’11-’12シーズンのブンデスリーガ1部連覇を達成。香川は’12年夏、イングランド・プレミアリーグの名門、マンチェスター・ユナイテッド入りを勝ち取った。 「香川はドイツ中堅クラブからスタートし、クラブとともにステップアップし、マンUまで上り詰めた稀有な例」とある代理人が評していたが、小野でも手が届かなかったプレミア・トップクラブに日本人選手が瞬く間に上り詰めた事実は大きかった。 香川の少し前にアーセナル入りし、フェイエノールトやボルトン、ウィガンなどにレンタルされた宮市亮(31・横浜)、’15年夏にレスター入りし、同シーズンのプレミア制覇に貢献した岡崎慎司(37・シントトロイデン)も含め、’10年代はプレミアでプレーする日本人アタッカーが着実に増えていった。その流れが’20年1月の南野拓実(28・モナコ)のリバプール入り、三笘薫(26・ブライトン)の大活躍につながったと見ていいだろう。 一方で、VVVフェンロから吉田麻也(35・LAギャラクシー)が’12年夏にサウサンプトンへ赴いたことも、非常にインパクトの大きな出来事だったと言っていい。 吉田もまた本田同様に日本代表歴がない状態でオランダへ赴いた選手だが、3年半キャリアを積み重ね、その間に代表レギュラーに定着。’12年ロンドン五輪にオーバーエイジで選ばれ、キャプテンとして準決勝進出の原動力となったのも追い風となり、プレミアへのステップアップを実現させたのだ。 香川、宮市、岡崎のようなアタッカーであれば、結果次第で最高峰リーグに行ける可能性も開けてくるが、日本人センターバック(CB)がその舞台に上り詰め、試合に出るというのはそう簡単なことではない。吉田の場合、189センチの長身とフィード力、そしてオランダで磨き上げた英語でのコミュニケーション力が大きな武器になったが、密な意思疎通が求められるポジションだけに、日本人CBの海外移籍はハードルが高いのだ。 吉田のサウサンプトン入りから9年後の’21年夏に冨安健洋(25)がアーセナルに赴いているが、今もメインのポジションはSB。その現実を見ても、日本人CBがプレミアで戦い抜いていくのがいかに難しいかよく分かるだろう。そこで彼らが実績を積み上げたことで、日本人DFの価値は着実に上がったと言っていいはずだ。 プレミアで堂々と戦う人材が増えれば、当然のごとく、欧州5大リーグの他クラブも日本人選手に注目し始める。実際、ドイツには香川の後、酒井高徳(32・神戸)、清武弘嗣(34・C大阪)、酒井宏樹(33・浦和)、宇佐美貴史(31・G大阪)、大迫勇也(33・神戸)、原口元気(32・シュツットガルト)らが続々と参戦。ニュルンベルクとハノーファーで大活躍した清武は、’16年夏にスペインの強豪・セビージャ入りを勝ち取っている。 ベルギーに関しても、GK川島永嗣(40)が中小クラブのリールセから2年後に強豪のスタンダール・リエージュに飛躍したこともあり、永井謙佑(34・名古屋)や小野裕二(30・鳥栖)らが続々と参戦をはたした。その多くが成功できなかったものの、川島が日本人GKの地位を引き上げたのは紛れもない事実だ。 その後、川島はフリー期間を経て、スコットランド・プレミアリーグのダンディー・ユナイテッド、フランス・リーグアンのメス、ストラスブールを渡り歩き、10年以上のキャリアを築き上げた。今季は無所属となっているが、日本人守護神が助っ人として欧州クラブに求められるハードルは相当に高い。それは今夏、メス移籍がギリギリで破談になったシュミット・ダニエル(31・シントトロイデン)の例を見ても分かるはずだ。 日本人大量移籍時代が加速した2010年代。長谷部や本田を皮切りに多くのトップ選手が外に出て、実績を残したことで、誰もが海外を目指せるようになった。今の若い世代はその恩恵を大いに受けていると言っていい。 続編記事『海外組が代表の大半を占め…「Jリーグ経由せず海外移籍」選手が支える日本代表の未来』へと続く。 取材・文:元川悦子
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