幕末維新期に現れた超巨星・島津斉彬、将軍継嗣問題の決着と率兵上京計画、その最期
■ 斉彬の最期 安政5年7月8日、斉彬は鹿児島城下南部の調練場(現鹿児島市天保山町)で軍事調練・大砲試射を視察した。調練終了後に釣りを楽しみ、帰城している。翌9日に激しい腹痛に見舞われ、10日に高熱を発し、頻繁に下痢をするなど体調が急激に悪化した。そして、食事も咽を通らない状態で衰弱し、16日に逝去した。享年50、法名は順聖院殿英徳良雄大居士である。 8月5日、島津家菩提寺・玉龍山福昌寺(現鹿児島市池之上町)に埋葬され。文久3年(1863)には、朝廷から照国大明神の神号をいただき、元治元年(1864)に照国神社に奉祀された。 斉彬の死因であるが、診察・治療した藩医坪井芳洲はコレラと診断している。処理が不十分な生魚を食したことに起因する、腸炎ビブリオでの死去説も存在する。いずれにしろ、長年の激務やストレスが根本にはあったのではないか。 なお、死去する直前に、久光や側近・山田壮右衛門らを枕元に呼んで、家督継承は嫡男の哲丸がまだ幼いため(当時2才)、久光かその長男忠義のいずれかとし、父斉興に伺って決め、哲丸はその順養子とすることなどを遺言した。 久光が辞退したため、家督は忠義となった。なお、順養子・哲丸は安政6年に病死している。斉彬の子どもで長生きしたのは、忠義の弟珍彦(重富島津家)に嫁した典姫のみであった。斉彬の血統は宗家ではなく、珍彦・典姫の子孫に継承したのだ。 斉彬は幕末維新期に現れた超巨星であったが、幕末の最激動期の文久期を前にして、幕末史の舞台から惜しくも退場した。もしも、斉彬がもう少し存命であったならば、「幕末維新」は違った歴史になっていたかも知れない。斉彬が成し遂げた新生日本を見てみたかったのは、筆者だけであろうか。
町田 明広