「イエスマンが出世していく人事」「教え子に甘すぎる無能教官」…裁判官の腐敗は”教育を受ける段階”からすでに始まっていた
「考える力」に乏しい裁判官
この点についても、テレビドラマや青年漫画誌のような感覚で、能力がなくても人のいい裁判官ならいいんじゃないか、などと考えるべきではない。裁判官の法的能力が弁護士よりも相当に低ければ、適切な訴訟指揮などできるわけがない(そのような裁判官を、ゴルフのたとえで「池ぽちゃ裁判官」と呼ぶ弁護士もいる)。また、考える力に乏しければ、まともな判断や和解案の提示もできない。一定の知的、法的能力は裁判官の最低必要条件なのである。 また、裁判官としての基本的な能力に欠けるところのある人は、伸びるといっても一定の限界があり、さらに、だらしなかったり、自己認識に欠けていたり、鼻息ばかり荒かったり(それだけならまだしも、自分の裁判長の言うことは聴かずに所長や所長代行の言うことばかり聴くなど、よりたちが悪い場合がある)で、指導がままならないという話を聞くことも多い。 自分の能力適性に関する正確な認識を欠いている場合が多いから、右のような事態を招くのであろう。 また、私の退官直前ころのことであるが、以前に比べて、裁判官任官希望者を評価する基準がさらに主観的、恣意的なものになっているのではないかという意見も複数耳にした。具体的には、組織になじむ人物であるか否かが以前よりも重視されているというのである。新任判事補選抜の際にまで、この書物に記してきたような意味での事務総局の意向に沿う人物か否かが、正面から考慮されている可能性があることになる。 これが単なる噂であればよいのだが、私自身、なぜこの人が任官できないのだろうと不思議に思った例、反対になぜこの人が任官できたのだろうと不思議に思った例を複数みているので、前記のような事柄を根拠のない噂として片付けることはできないのではないかと考えている。 『日本の裁判官の質が低下している原因は「徒弟制」にあった…若手判事補の日常教育に潜む問題点に迫る』へ続く 日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行され、たちまち増刷されました。 「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」「なぜ、日本の政治と制度は、こんなにもひどいままなのか?」「なぜ、日本は、長期の停滞と混迷から抜け出せないのか?」 これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)