「イエスマンが出世していく人事」「教え子に甘すぎる無能教官」…裁判官の腐敗は”教育を受ける段階”からすでに始まっていた
丸暗記・丸写し教育
むしろ、司法研修所教官は、その中で「使える」ような者を選別してたとえば地方の高裁事務局長にするなど、司法官僚の2次的な選別コースになっているといわれる。2次的というのは、能力からすると、事務総局課長や最高裁判所調査官に比べればよりばらつきが大きいからである。ただし、近年は、情実人事的傾向の進展に伴い、上司の顔色をうかがうことに秀でたイエスマンの多い司法研修所教官が取り立てられる例が、以前よりも多くなっている。 そのような教官が教えるわけであるから、教育内容は、当然、千編一律のマニュアル詰め込み、丸暗記が中心であり、また、異説はきらわれる。したがって、修習生たちの考える力や分析力は伸びず、かえって、丸暗記、丸写し教育の弊害が出てくる。 また、新任判事補の選別も、客観性に乏しいものとなっていく。 弁護士人気が高まったバブル経済の時代に新任判事補の下限レヴェルの質は著しく落ちており、不況期に入ってからもそのことは変わっていない。平均的な修習生のレヴェルに達しない能力、成績の者が相当数裁判官に採用されており、ことに、司法試験合格者がかなり増加した後の新任判事補の中には、判決書起案の主文にまで書き落としや形式ミスが目立ち、注意されてもなかなかそれがなおらないといった例までが存在する。 これは、今日の優秀な修習生の多数(私がみてきたところでは7、8割程度)が弁護士になり、かつてのように裁判官に人気がなくなってきたことにもよる(なお、検察官については、近年、昔よりも人気がある)が、もう1つの理由は、教官が、能力主義の公平な評価を行っていないことにあると思う。 教官の中には、「教え子について悪いことは書けない」などと言って、能力不足の人について問題はないとの評価を行い任官を可能にする例があるのだ。しかし、そういうことを言うのであれば、自分自身がその教え子と合議体を組み、責任をもって教育すべきなのである。前記のような発言は、評価者として無責任もはなはだしい。結局、配属先でその指導に当たる裁判官のみならず、当の本人も苦労することになるからである。