「負けちゃならんと思ったんです」伝説のストリッパーが頂点に昇り詰めるために使った「特出し」とは
全国を席巻した「特出し」
一条は一生懸命、踊ってはいるが、どこかあか抜けない。彼女にパッと華やかな名前を付け、大看板に育てられないか。益田は漫才師の鳳啓助に相談する。鳳から「一条さゆり」を提示され、益田はすぐに、「よっしゃ、それで行こう」と決めた。鳳も晩年、自分が名付け親であると認めていた。 吉永小百合は川口を舞台にした映画『キューポラのある街』で主人公、ジュン役を演じている。この映画の封切りは1962年で、一条が「さゆり」を襲名したころである。川口出身の一条は、「さゆり」の名に妙な因縁も感じていた。 一条の改名とほぼ時期を同じくして、ストリップ界に現れたのが「特出し」だった。陰部を完全にさらすこの芸を、いつ、誰が、どこで、初めて披露したのかはわかっていない。ただ、彼女がデビューした58年ごろ、関西の劇場で登場したのではと考えられている。 その芸が全国を席巻するのは60年ごろである。一条が踊りに集中できるようになったちょうどそのころ、ストリップ界に「特出し」の波が押し寄せてくる。「特出し」が一条を育て、一条が「特出し」を洗練させた。 そして、この芸に替わる新しいストリップ芸「本番・生板(まな板)ショー」が登場するのは一条が引退する72年ごろである。一条が踊った時間はちょうど、「特出し」の時代と重なっている。
「看板さん」になりたい
改名した一条の人気はロウソクショーと「特出し」でうなぎ登りである。自分でブラジャーも取れなかった踊り子がなぜ、陰部を恥じらいなく見せるようになったのか。 「卵買わないかん、米買わないかん。ちょっとでも肉を食べたい。そのためには負けちゃならんと思ったんです」 当時のストリップは踊り子が一団となって、全国の劇場を旅回りしていた。そのなかで最も客を呼べる踊り子が、「看板さん」と呼ばれ、それを頂点にヒエラルキーができていた。 「みんなで一緒にご飯を食べるときも、肉は看板さんから食べるので、新人が食べるころには肉がない。ご飯と卵はたくさんあったけど肉がなくてね」 好きなだけ肉が食べたい。そのためには「看板さん」になるしかない。旅回りする一団のなかに、時折人気のある踊り子をゲストに招いた。そうした特別出演を最初、「特出し」と呼んでいた。それがいつからか、陰部を見せることに意味が転じる。一条は早く「看板さん」になるためには、「特出し」しかないと思いはじめる。 『名だたる作家や歌舞伎役者をも虜に…戦後の「伝説的スター」が創り上げたストリップの「黄金期」』へ続く
小倉 孝保(ノンフィクション作家)