「負けちゃならんと思ったんです」伝説のストリッパーが頂点に昇り詰めるために使った「特出し」とは
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第32回 『舞台袖で母のヌードを見る娘…昭和を彩った「ストリッパー」たちの現代では考えられない「子育て事情」』より続く
激動の時代を生きるストリッパー
60(昭和35)年は「安保闘争」で戦後日本社会の転換点となった年だった。日米両国は1月19日、新安保条約に調印した。それまでの条約にはなかった米国の日本防衛義務を明確化するとともに、日本も憲法の範囲内で軍事行動をとることを約束した。 学生や労働組合が中心となって、この安保条約改定に激しい反対闘争を繰り広げた。結局、6月19日、安保新条約は参議院での議決を経ないまま自然承認となった。翌20日、岸信介が引退を表明し、池田勇人内閣が成立している。 こうした社会の混乱をよそに、一条は踊りに打ち込んでいた。貧しさから逃れるには、この世界でのし上がるしかなかった。食べること、生きることに必死で、少しでも豊かになろうと夢見る彼女にとって、安保闘争は別世界の出来事だった。そんな彼女がその後、わいせつを巡る裁判で反権力の象徴的存在になるのは皮肉である。
「一条さゆり」への改名
デビューから3年。61(昭和36)年ごろになると、一条は度胸を付け、思い切りよく脱ぐようになる。 「デビューして2年(1960年)くらいから余裕が出て、3年目には新人に踊りを教えたりしていました」 一条は芸名を「赤羽まり」から「リオ椿」、しばらくして「一条さゆり」に変えている。「京都」のイメージが付くように「一条」、吉永小百合の人気にあやかり「さゆり」とした。 この改名には踊り子の面倒をみていた益田凡児が絡んでいた。益田は岡山県倉敷市出身で、喜劇役者をしながら、大阪や東京で劇場を経営していた。アイデアマンであり、日本人の髪を金髪に染めて外国人ストリッパーとして売る「金髪ショー」を考案したのも益田だった。 日本女性を少しでも外国人らしく見せようと、益田は「踊り子に毎日、(洋食である)サンドイッチを食べさせた」と語っている。