道長が厚い信頼を寄せた藤原斉信
清少納言は一条天皇の中宮・藤原定子の女房だったから、自身と懇意にする斉信を、定子の兄である藤原伊周や弟の藤原隆家といった中関白家に近い立場と捉えていたようだ。しかし、彼らが失脚するのと同時に、入れ替わるような形で斉信は参議に昇進している。つまり、この時点で斉信は中関白家ではなく、その政敵である道長側の陣営であることを鮮明にした。斉信の栄転する姿に、清少納言が何を思ったのかは明らかにされていない。 1001(長保3)年に権中納言に昇進。自身の位を追い越される形となった同母兄の誠信(さねのぶ)は、怒りのあまりに絶食し、除目の7日後に憤死したという逸話が残っている。1009(寛弘6)年には権大納言に進んだ。順調な昇進の背景には、官僚としての有能さはもとより、盟友・道長の後押しがあったことは間違いない。 道長は娘・彰子(しょうし/あきこ)の中宮大夫、孫・敦成(あつひら)親王の東宮大夫、三女・威子の中宮大夫をそれぞれ斉信に任せている。自身の家族と最も距離の近い役職を与えていたわけで、いかに道長からの信頼が厚かったかがうかがえる。 もっとも、こうした〝身内びいき〟に等しい処遇に厳しい目を向ける藤原実資(さねすけ)からは辛辣な評価が下されている。道長を支えた四納言に対しては、道長への追従ぶりは見ていられない、といった言葉を残しているほか、斉信については「貪欲、謀略、其の聞こえ、共に高い人なり」(『小右記』)と悪しざまに書いた。 また、1005(寛弘2)年より彰子の女房として宮仕えした紫式部とは漢詩のやり取りなどで交流していたようで、『紫式部日記』には度々、斉信の様子が描写されている。ただし、「け遠き(疎遠な)人々」のひとりと紹介されており、風流を解する能力の高さは評価されていたものの、仕事を離れて個人的に親しく交際する関係にまではならなかったらしい。 1020(寛仁4)年には大納言に昇進。1035(長元8)年3月に69歳で亡くなった。「病無くして死す」(『公卿補任』)とあるので、病気で苦しむことのない最期だったようだ。
小野 雅彦