芭蕉が「昔より、賢き人の富めるは稀なり」と詠んだ紅花商人 鈴木清風(上)
「紅花を栽培することは、米や豆を作るよりもはるかに有利であった。元禄年間には350駄(駄は馬または牛一頭に背負わせるだけの量)ぐらいしか出荷しなかった紅花はそれから100年後の寛政年間には1400-1500駄も出荷するようになった。その代金は1駄(30貫目、120キロ)は80両前後であったから少なくとも10万両ほどの大金が山形地方に流れたことになる」(後藤嘉一著『やまがた経済風土雑記』) また山形大学の岩田浩太郎教授もこう述べている。 「紅花は一反歩で稲作三反歩に匹敵する高収益作物でしたから栽培が広がりました。村山産の『最上紅花』は全国ブランドとなり、18世紀末には全国シェアの半分を占めました」 清風は京都で紅花を売って莫大な利益を上げると同時に江戸でも豪快にもうけた。江戸での清風伝説で欠かせないのが、吉原を買い占めた一件。 樋口一葉の名作「たけくらべ」の冒頭に「廻れば大門(おおもん)の見返り柳いと長けれど」とある。その大門を締め切って、三浦屋という遊女屋で三日三晩の豪遊をやってのけ、破天荒のお大尽ぶりに江戸っ子のド肝を抜いたという。 大門を閉めるということは、吉原の遊女を1人占めしたわけである。当時、遊女は2000人を超していたというから清風も派手なことをやってのけたものだ。 もしこの大盤振舞いが芭蕉の耳に入っていれば、「清風め、羽目をはずすにもほどがある」と眉をしかめたのだろうか。いや、「さすが清風、もうけた金を江戸市中に散財すれば、それがまたもうけとなって返ってくるというものですよ」と拍手を送ったのかもしれない。
それというのが、芭蕉は「俳聖」と呼ばれる一方でなかなかの経済通であったと伝えられるからだ。勝海舟が「芭蕉は非常な経済家であった。近江商人は皆、芭蕉の遺言にのっとってやるのさ」(海舟自伝)と語っている。 芭蕉が豪商鈴木清風と経済や相場を巡って語り合っていたとすれば、痛快これに過ぎるものはないだろう。 芭蕉が尾花沢滞在中に清風に贈ったのが有名な次の一句。 「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花」 そして「奥の細道」の中にも清風の名が記され、430年後の今日も読み継がれる。 「尾花沢にて清風という者をたずぬ。彼は富めるものなれども、志いやしからず。都にも折にかよい、さすがに旅の情を知りたれば、長途のいたわり、さまざまにもてなしはべる」 鈴木清風(1651-1721)の横顔 山形の特産紅花で巨富を築き、「紅花大尽」と呼ばれた。それでいて西山宗因の主唱する初期談林派の俳人でもあった。遊ぶ時は派手に遊んだ。都々逸にその豪奢な大盤振舞いのさまが詠まれている。「最上衆なら粗末にならぬ敷いて寝るような札くれる」。清風は紅花で稼いだ金で金融業も手広く営んだ。商人に融資するばかりか農民にも貸しつけ、大名貸しもやった。白川藩、新庄藩、山形藩、上山藩、秋田藩などが清風のお得意さんだった。