【高校野球】神奈川県立高校に潜んでいたドラフト候補 強豪校相手に14奪三振…菅高・岩瀬将
右腕の心を変えた一つの出会い
アメリカ・カリフォルニア州生まれ。5歳から地元のチームに入り、ティーボールに触れた。2009年の第2回WBCは現地で日本戦を観戦した記憶があるという。年長で日本に戻った。金程小時代に在籍した金程少年野球部では主に中堅だったが、6年春の麻生区大会決勝で初登板すると、5回コールドで優勝に貢献。金程中では投手に転向も、1年時は成長痛がひどく、満足にプレーができず、エースとなった2年時はコロナ禍でほとんどの大会が中止。3年時は川崎市大会8強へ導いた。当時から130キロは出ていたという。 高校進学に際しては私学からの誘いもあったが、あまり気が乗らなかった。「強豪校へ進学したとしても、出場する自信がありませんでした。野球にもさほど、興味があるほうではなく……。(2歳上の)兄がいる菅高校でもう1回、一緒に野球をやろうと思いました」。1年夏前には133キロを計測。「すぐにエースになれるかと思ったんですが、甘くはありませんでした」。神奈川大会から背番号19でベンチ入りも、チームは1回戦敗退、岩瀬の出場機会はなかった。2年春の県大会から救援として登板機会を得るも「チーム事情として投手がいなかった。ただ、球が速いだけでした」と、状況としては厳しかった。
一つの出会いが、岩瀬の心を変えた。平林監督は昨年4月から菅高に赴任し、野球部長に就任した。かつて率いた相模田名高では15年夏に4回戦進出。昨年3月までは上溝高を指揮し、他校を含めて、多くの高校球児を見てきた中で、直感めいたものがあったという。 「投げることに関しての才能が素晴らしかったんです。例えば、体育の授業などでバスケットボールを投げても、コートの端から端までの距離でも、相手に胸に投じられる。スリーポイントシュートも簡単に決まる。投げるために生まれてきた。走る姿、立ち姿にも風格がある。潜在的にも肩関節が柔らかく、可動域の広さが投球フォームにも生かされています。ただ、のんびり屋(苦笑)。自らのポテンシャルに気づいていないようでした」 昨年5月の練習で、平林監督は「プロに行けるだけの素質があると思うんだけど……」と声をかけた。「この人、何言っているんですか? みたいな顔をしてくるんです。私としては、まずは自覚を持たせるためにも、自信をつけさせることが必要だと考えました」。岩瀬は耳を疑ったが、内心はうれしかった。 「想像もできない世界の話をされたので、パッともしませんでしたが、野球にやる気が出ました。単純かもしれませんが(苦笑)、以来、真剣に練習をするようになったんです。すると、平林先生が言ったとおりに物事が進んで……。これは、もしかして……と」 2年夏は背番号11でメンバー入りも、7回コールド敗退した麻生高との1回戦は7回表、最後の攻撃の代走のみの出場に終わった。エースとなった昨秋は地区予選で2試合に登板も結果を残せず、県大会へ進出できなかった。成長過程であり、すぐに結果を求めるのも酷だった。冬場は初めて変化球の習得に着手。外部コーチから専門的な指導を受けた。 「手先が器用で、のみ込みが早いんです。1回の指導で自分のものにする」(平林監督)