3歳で被爆「私にできること」 広島原爆死没者名簿に10万人の名前 40年近く記帳続けた被爆者の願い
原爆が投下された当時、池亀さんは3歳でした。爆心地から約2キロの西区観音にある建物の中で被爆しました。顔と頭にガラスが刺さりましたが、家族全員、命は助かりました。 池亀和子 さん 「ガラス越しに外をながめていたら、桑畑からパーっと火の手が上がったのをよく覚えていますよ。母がもう必死になって家の前でおらんだり(叫んだり)していたのも覚えています。『和子ー! 和子ー!』と」 被爆の瞬間は鮮明に覚えていますが、それ以外はあいまいです。 記帳は、3歳で被爆した自分にできる「供養」だと話します。 池亀和子 さん 「わたしも被爆者でありながら、伝達することも何もできないし、まだ、わたし3歳だったから全部は知っているわけじゃないし。だから、わたしにできることはこれぐらいかなと思って」 名簿は年に一度、湿気を取り除くための「風通し」が行われます。重さ300キロの石のふたを開け、120冊を超える全ての名簿を取り出します。 広島市はことし初めて、地下の様子を公開しました。せまい石室の中には28個の「奉安箱」が並び、名簿が大切に保管されています。 82歳の池亀さん。ことしは予想外の出来事が起きました。胃がんが見つかり、手術を終えてしばらくすると今度は体調を崩して1か月あまり入院しました。 書きかけの名簿は家族に届けてもらい、病室に持ち込みました。退院した日は、自宅に着いてすぐに記帳を始めたといいます。 池亀和子 さん 「やっぱり気が焦りますよね。入院の日にちがだんだん、だんだん長くなるので。先生に『帰らせてもらえないんですか』と言ったら『そうね、大役があるんよね』と…」 式典前日の8月5日、池亀さんはことし記帳する名前を全て書き上げました。 新たに追加した名前はあわせて5079人。亡くなった被爆者の累計は34万人を超えました。名簿には、池亀さんの平和への祈りも込められています。 35回目の記帳を終えた 池亀和子 さん(82) 「安心いたしました。わたしは原爆に対していろんなことはできないし。ああ、これでやっとことしも済んだのだという気持ちです」