言葉では語れない郷土史。岩田智哉評「できごとども 五月女哲平、五月女政巳、五月女政平」
言葉では語れない郷土史 2023年、筆者がディレクターを務めるThe 5th Floor で、それまで見たことのない形式の展覧会が開催された。「こう、こう、こう」と題されたその展覧会は、画家の五月女哲平 と同じく画家であった父・政巳、祖父・政平の3人の絵画数点を一部屋ずつに配し、そこにキュレーターの鈴木葉二によるそれぞれ異なるスタイルのテキストが3編組み合わされたものであった。同展が絵画とテキストによる極めてシンプルな構成でありながらも実験的な展覧会であったのは、そのリサーチの角度および絵画の鑑賞体験を一変させるテキストによる。そして、今回、五月女家の地元である栃木県小山市にある 小山市立車屋美術館で開催された「できごとども 五月女哲平、五月女政巳、五月女政平」展(以下、「できごとども」に統一)は、「こう、こう、こう」と同じ作家とキュレーターではあるが、別のかたちで構想されたものであり、かつ絵画による展覧会の新しいあり方を提示するものであった。 「できごとども」は、「こう、こう、こう」と同様に五月女家3代にわたる絵画から構成されている。しかし、大きく異なるのが、まとまった文章の不在である。「こう、こう、こう」では、政平の画家としての人生を抒情的に綴ったもの、政巳のひととなりや彼が描く市の施設にまつわるもの、そして哲平を起点に置きつつ五月女3代を主観・客観両面から掘り下げた年表という、異なる文体のテキストが3つ、それぞれの作家に対応するかたちで冊子として展示空間に置かれていた。しかし「できごとども」では、配布資料の挨拶文でキュレーターの鈴木による控えめな想いが述べられているのに留まる。いっぽうで、ほぼすべての作品のキャプションに、長短様々な解説文が寄せられている。このように絵画と文章を通して、五月女家3代のそれぞれの視点から見た景色がどこか重なるように、あるいはそう見えているだけであるかのように、鈴木のキュレーションによってときほどかれている。 展示空間でまず鑑賞者を出迎えるのは、五月女政平による《無題》(1955)、《熱帯魚》(1967)、そして政平の作品が市内各所に展示されている様子を集めたファイルである。ここでは、街の歴史や地域の文化を考えるうえで、彼らが3代にわたって重要な役割を担ってきたことが五月女家の作品を通して間接的に示される。《無題》(1955)はすでに失われてしまった合併前の豊田村役場の庁舎を描いており、現在は豊田公民館にて飾られている(*1)。また、当時の流行りの趣味を描いた《熱帯魚》(1967)は、普段は群馬銀行栃木支店の誰からも見える場所に掛けられているという。展示室中央に置かれた長椅子には、政平の絵画が市内の小中学校で普段展示されている様子を撮影した様子がまとめられている。このように、最初の展示室では政平が地元や人々の暮らしに関心を持っていたこと、そして彼の絵が市内の各所に寄贈・展示され、街の人々の生活の一部になっていることが示唆される。 次の展示室に移ると、哲平の《Lake》(2011)が2011年の彼の個展「猫と土星」展と同様に展示されている。同作から始まり、この展示室に展開される作品のキャプションには、それぞれが描かれた当時の話や描かれた対象がたどった歴史などの「できごとども」が言葉として添えられる。そして、絵画はそうした「できごとども」のいわば生き証人のように淡々と積層した現実を写し出している。 例えば《Lake》(2011)には、「作者にとって美術館での初個展。展示室の外には『がんばれ 日本!!』の立看板が置かれていた。開催一か月前、東北地方太平洋沖の日本海溝の断層を震源に巨大地震が発生し、押し寄せた津波とともに、事態は『東日本大震災』へと急速な展開を遂げた」とある。 政巳の《芽吹く頃(十和田湖畔)》(1996以前)には、「十和田湖には、新緑と紅葉の季節、毎年のように通った。定宿とした和井内ホテルは明治大正期、カルデラ湖のため魚のいなかった十和田湖にヒメマスを定着させた和井内貞行が営んだという歴史をもつが、二〇〇〇年前後に閉業して現存しない」と書かれている。 政平の《無題》(1961)には、「栃木県の葛生・鍋山地方には国内有数の石灰岩の鉱床がある。古生代ペルム紀(約二億六千万年前)の珊瑚や有孔虫が堆積してできたもので、製鉄、肥料、外壁、道路など、様々な用途に利用される。日本の高度成長期、石灰の出荷量は増加の一途を辿った。鍋山で石灰業を営む田政砿業の先代の社長がかつて作者を応援したことがあり、このような絵が残されている。作者は戦争から生還してしばらくは農協に勤めたが、三十三歳の頃、画家となるために周囲の反対を押し切って辞職し、貧しい暮らしをしながら上達に励んでいた。既に四十歳の作品」(*2)という言葉が添えられる。 このようにキュレーターの鈴木が示すのは、技法や理論、美術史的な文脈といった衒学的な鑑賞の補助線ではなく、五月女家という3代にわたる画家系の絵画を通してこそ見えてくる小山市という場所の姿であり、それが同時代の様々な事象と結びつきながらどのように変遷してきたかであり、そして自らの身体を通して時と場を眼差す五月女3代の画家としての矜持である。 そうした三者による風景や街景に対する眼差しは、展示後半にかけて徐々に交錯しはじめる。政平による《無題》(制作年不明)と政巳による《水辺》(1995頃)は、偶然か必然か、旧思川の川縁をほとんど同じ構図で描いている。哲平による《Two doors, two windows》(2010)は、祖父と父が市の公共施設を対象として描いたのと同様に、市立の図書館を幾何学的に描く。 いっぽうで、政平が出征前に父を描いた《無題》(1942)の横には、本展のために制作された哲平による親子3代一人ひとりの肖像と彼らのつながりを描いたように見える《できごとと人》(2024)が並置されたり、政巳による軽やかなタッチながら細かな人の身体的特徴や風に揺れる木々などの一瞬をとらえた作品が展示されたりなど、じっくりと腰を据えて画面に没頭する政平、素早く外でスケッチをする政巳、抽象化された構図と色彩で描く哲平といった、それぞれの画家としての態度や技術が見えてくる。そこには、3代の画家を血のつながりを担保に表現の連続性を無批判に探るような暴力的な目線は見当たらない。 率直に言ってしまえば、鬱屈とした現実を覆そうとする感情のほとばしる前衛性や、社会に対して何かを訴えかける強い正義感のようなものは本展には見当たらない。また、連綿たる美術史を意識させる難解なコードも見当たらない。現代美術は言わずもがな現代社会の諸相を反映するものであり、それゆえなんらかの問題提起を含むこともしばしばである。そしてもちろんこの展覧会にはそれが皆無である、とも言わない。 しかし本展を支えているのは、垂直的にひとつの分野やテーマを掘り下げていくアカデミックなリサーチではなく、ある事象を複数の視点から掘り下げていくことで、ふと地下水脈のようにバラバラの物語がつながっていく、そんなリサーチである。前者は、専門性の観点から見れば新たな学術的参照点を提供しうるし、分野全体での漸次的な進展も期待できる。しかし現代美術の展覧会に求められるのは、そういった類の新規性ではない。むしろ、作品を通すからこそ見えてくる、立ち現れてくる新たな視点であり、価値観だろう。 本展では、そのようなバラバラのできごとが緩やかにつながるリサーチ、それを踏まえた解説文、そして絵画が結びつけられる。それらにより、ある街の風景、そこに住む数多くの人々、彼らの暮らし、それを支える公共の姿の移り変わりが淡々と、しかし豊かに、街の外部と緩やかに接続しているさまが見えてくる。絵画でしか直面できない現実の時間、その積層がそこにはある。それは絵画に対する実直なリスペクトであり、描かざるを得ない衝動であり、また変わりゆく街とそこに生きるものへの愛である。 言葉にされない現実もすべて受け止めて、絵はぴたりとこの世界に留まってくれています。(*3) 鈴木がこう述べるように、五月女家3代の絵は街や人の移り変わりをそれぞれの仕方で見せてくれる。世代を越えて脈々と続けられた画業を通してはじめて触れることのできる景色が垣間見え、鑑賞者自身の生活とのつながりが浮かび上がる。言葉では語れない郷土史がそこにはあった。 *1──「作者の生まれた豊田村は一九五五年に穂積、中村と合併して美田村となり、さらに六三年、小山市に合併された。一九五四年に豊田村役場として建設されたこの庁舎は、八四年に建て替えられ失われた」(キャプションより)。 *2──いずれも展覧会のキャプションより。 *3──「できごとども 五月女哲平、五月女政巳、五月女政平」会場配布資料の挨拶文より。 写真=木暮伸也 提供=小山市立車屋美術館
文=岩田智哉