性的な求めを拒絶した10代の姉妹を酒に酔ったソ連兵が射殺――性暴力は「日常」だった
酒に酔ったソ連兵が10代の姉妹を殺害
日本の敗戦後、咸興(ハムン)に住んでいた日本人と避難民の救済・援護活動にあたった咸興日本人委員会が1946年12月にまとめた「北鮮戦災現地報告書」は、1945年9月当時の咸興における被害を次のように伝えている。 〈特に戦闘部隊としてまっ先に進撃してきたソ連軍の本国帰還の交替期を前にして、司令官の命令を肯んじない不良兵の暴挙は、9月中・下旬が絶頂で、市街の周辺住宅地区を主として、昼夜の別なく不法侵入による盗難・暴行・凌辱事件が頻発、この届出が1日20件から30件を下らず、在留同胞は生きた心地のない日常生活に怯えきっていた〉 報告書には、18歳と17歳の姉妹が11月2日に咸興の神社で、泥酔したソ連兵の求めを拒んで、数発の銃弾を浴びて死去した事件も記録されている。
「女はいるか? 金はたくさんあるぞ」
1946年春ごろになると、咸興や興南に在留する日本人の子供の間には、“ソ連ごっこ”が広がった。 「マダム、イッソ? (女はいるか) トン・マニイッソ(金はたくさんあるぞ)」 ソ連兵役の子供が、黒パンに見立てた赤レンガをわきに抱え、朝鮮語で訊く。それに対して、日本人の男役に扮した子供がロシア語で「ニエット(いない)」と否定する。すると、ソ連兵役の子供は日本人の女性役になった別の子供を見つけて、次のように叫んで追いかけ始めるのだ。 「マダム、ダワイ! (女を出せ)」 鬼ごっこに似た、この陰惨きわまりない遊びの流行は当時、ソ連兵の女性暴行が日常茶飯事と化していたことを示す証左だといえるだろう。 *** 第1回の〈「日本人6万人」の命を救った”アウトサイダー”を知っていますか〉をはじめ、終戦で難民と化したきわめて過酷な状況下で、外交官・杉原千畝の「10倍」もの同胞を祖国に導いた「松村義士男(ぎしお)」について、全6回にわたって紹介する。 ※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。
デイリー新潮編集部
新潮社