【ラグビーコラム】ベテランの価値。(森本優子)
6月の佳き日、SNSに笑顔の写真が流れてきた。「笑わない男」のキャッチフレーズは、このための長年の伏線だったのかと思うほど、新郎新婦の表情は幸せにあふれていた。緑あふれる中での古式ゆかしき挙式。稲垣啓太選手と奥様の伝統的な婚礼衣装を目にして、ふと5年前の宮崎の出来事が甦った。
2019年夏、日本開催のW杯を控えて日本代表は宮崎で長期の合宿を張っていた。練習内容も過酷で、取材規制も厳しかった。初の自国開催という、誰にとっても経験したことのない状況。細かなマネジメントにまで手が回っていないだろうなと感じていた。 合宿終盤の7月17日、日向市の大御(おおみ)神社にチームが参拝するという事前のリリースがあった。 「君が代」の歌詞にも登場する、国内最大級のさざれ石が祭られている神社だ。2015年、エディー・ジョーンズHCがチームを率いて参拝したのが最初だ。参拝翌日は宮崎合宿の打ち上げ、W杯成功を祈るためのチームビルディングだった。 場所は宮崎市内から車で1時間ほど。報道陣は先にスタンバイして、チームバスの到着を待っていた。プロ野球やJリーグチームも開幕前に神社に参拝するが、チームスーツがマナー。だが季節がらスーツは難しい。バスで到着した一行はポロシャツと短パンの日常着だった。中にはポケットに手をつっこんで歩く選手もいる。ここは作法のレクチャーが欲しかったところだが、そこまで行き届かなかったのだろう。 神様に礼を失することにならねばよいがとヒヤヒヤしながら見守っていると、稲垣選手がつかつかと入口の手水舎に向かうと、ひしゃくで水をすくい、手を清めてから再び歩き出した。その様子を見ていた何人かの外国人選手も見よう見まねで、彼に続いた。おそらく、未知の作法は彼に倣うというコンセンサスがあるのではないか。密かに胸をなでおろした。 後日、稲垣選手本人にそのことを確かめる機会があった。 「行儀作法については、子供のころから厳しく言われてきたので」 当時の写真を見返すと、稲垣選手だけが足首までのボトムスを着用している。些細な事だけれど、神は細部に宿る。まさに「さざれ石の巌となりて」。私の中であの日の参拝は、稲垣選手の振る舞いで救われた。 日本文化をリスペクトする、取り入れると言っても、実際には簡単ではない。チームとは、一人ひとりの選手のそれまでの人生の集合体でもあると感じた。 新しいジャパンに、まだ彼の参加はない。リーグワン終盤、埼玉WKのメンバー表にも名はなかった。だが、2月の日本代表の最初の福岡合宿でエディー・ジョーンズHCは「リーチと稲垣と姫野はメンター的な存在としても必要」と言っていた。ベテラン選手は、試合や練習だけで必要とされるものではない。チームの根幹を築くのに必要な要素は、彼らの人間性の中にこそある。まだまだジャパンには稲垣選手の力と知見が必要だ。 しばし羽を休めたら、またグラウンドに戻ってきてください。ミックスゾーンの「稲垣モール」(話を聞きたい記者が多いので、しぜんとモールが形成される)、楽しみに待っています。 【筆者プロフィール】 森本優子(もりもと・ゆうこ) 岐阜県生まれ。1983年、ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部に配属され38年間勤務。2021年に退社しフリーランスに。現在トヨタヴェルブリッツチームライター。