袴田事件再審、なぜ検察は再び死刑を求刑したのか?「歴史に汚点」でも「冤罪・ねつ造の疑い」を認められない理由
■ 「無罪が確実」でも検察は主張を曲げない 最高裁は「白鳥決定」と呼ばれる1975年の決定によって、再審に関する1つのモノサシを示しています。それは再審においても「疑わしきは被告人の利益に、という刑事裁判の鉄則が適用される」というものでした。再審そのものは、確定判決を覆すような新証拠があって初めて開始決定が出されます。 つまり、無罪を裏付ける決定的な新証拠が存在し、かつ、その再審では「疑わしきは被告人の利益に」の原則を貫くのですから、再審は始まった時点で無罪になる確率がかなり高いのです。実際、死刑囚からの請求が認められて始まった再審(4大冤罪事件)は、いずれも無罪が確定しました。 これらの無罪判決は1980年前後に集中しており、当時は「死刑台からの生還」という言葉も流行しました。 ところが、これら4つの事件を見てみると、再審開始の時点で無罪は確実と言われながら、再審公判の求刑で検察側はいずれも原審と同様に死刑を求刑していたことがわかります。無罪が確実と言われながら、なぜ検察はいつも死刑を求刑してきたのでしょうか。
■ 「疑わしきは被告人の利益に」だが… 死刑囚初の再審として注目された免田事件では、検察側が1982年11月の再審公判で「被告が真犯人である証明は十分である。遊ぶ金ほしさに4人を殺傷した残忍極まりない事件で許し難い。犯行後、34年を経た今も改悛の情がない」として、またも死刑を求刑しました。 ただ、検察側は自説を補強する新証拠を出したわけではありません。そのため、弁護団は当時、「われわれはがく然とした。再審公判では格別の証拠も出さぬまま、再び死刑を求刑したことは断じて許されぬ」と検察側を批判。そのうえで「再審公判でわれわれが見たものは、免田君の無実の証しかなかった。それを検察官は無視した」と指弾しました。 免田事件の再審無罪が確定した直後、読売新聞は1983年7月16日朝刊に掲載した社説で、冤罪事件には別件逮捕や自白の強要が必ずあり、それがパターン化していたことがわかると批判。「無理な捜査は(現在も)あとを絶ったわけではない。こうした暗黒を生み出した捜査当局と透徹した眼力を持たない裁判所に、ともども猛省を促さなければならない」として、「疑わしきは被告人の利益に」を貫くことのなかった検察や裁判所を真っ向から批判しました。 4大冤罪事件を振り返ると、再審公判での死刑求刑はいずれの場合も検察側が「ほかに真犯人は考えられない」「証拠は十分に揃っている」という主張を貫いた結果でした。 【関連記事】 通称「袴田事件」を生み出した「日本型組織」の内在論理 1984年3月に再審公判で求刑が行われた松山事件でも、検察側は「被告の犯行は自白や物証によって十分に証明されている。被告以外に犯人がいることを疑わせるものはない」と言及。これまでの捜査は適正だったとして、死刑を求める姿勢を変えませんでした。 無罪が確実という流れのなかでも「死刑求刑」を崩さない理由は、いくつかありそうです。