ジェームズ・ボンドを生んだ英国のスパイ組織「非紳士的な戦争省」とは、命名はチャーチル
なぜ「非紳士的」と呼ばれるのか?
SOEの仕事は非常に危険だった。例えば、SOEの無線技士はヨーロッパにパラシュートで降下した後の余命が6週間で、女性構成員の44%がフランスで捕虜になった。諜報員は拷問や処刑、強制収容の可能性があり、現場での生活は危険で孤独なものだった。 SOEは構成員を支援するため、特殊な武器や装備を開発した。偽の足跡を残すことができるスニーカー、スーツケースのように見える無線機、消音装置が付いた銃、袖に隠すことができる銃器、革新的な爆発物などだ。また、偽の書類や新しい身分証明書なども支給した。 この極秘組織はやがて、チャーチルの造語である「非紳士的な戦争省」という愛称を得た。ヒトラーがヨーロッパに築いた足場を崩壊させるため、秘密主義、ずる賢さ、そして殺人にさえ頼る秘密組織としての「型破り」な行動に由来する。 SOEの戦術は常に命懸けだったわけではない。諜報員はドイツの軍服にイッチングパウダー(触るとかゆくなる粉)を振りかけるようなこともしていた。また、敵を混乱させたり、士気を低下させたり、武器の生産を遅らせたり、レジスタンスグループを励ましたりした。その戦術、そして、必要であれば殺しも許されるという「型破り」でさまざまな要素が絡んだことは、英海軍の諜報員としてSOEとやりとりしていたイアン・フレミングがジェームズ・ボンド・シリーズを書くきっかけになった。
どうして物議を醸したのか?
ただし、SOEは完全無欠ではなかった。例えば、オランダでは、ナチスのスパイによる潜入を許した。警告があったにもかかわらず、当局は手遅れになるまでその証拠を無視し続け、53人の諜報員がドイツの手に渡り、その過程で約200万ドルの損失が出た。これは第2次世界大戦における最大級の失策として知られている。 SOEの行動はしばしば、英国と同盟国、さらには英国の指導者同士を対立させる事態をもたらした。例えば、ポストマスター作戦では、英国が自国の領土から商船を盗んだことに中立国のスペインが激怒し、作戦について知らされていなかった英国軍の首脳陣や政治指導者の間でも騒動が起きた。 SOEの行動が裏目に出ることも多かった。例えば、1942年、SOEの諜報員によって訓練されたチェコのレジスタンスグループがラインハルト・ハイドリヒの暗殺に成功した。ハイドリヒはナチスの有力者であり、ドイツの支配地域で進行していた「最終的解決」計画の推進者だった。 暗殺は勝利だったが、ナチスによる残忍な報復を招いた。ナチスは報復として数百人を処刑し、チェコの町リディツェを壊滅させ、170万のユダヤ人を死に至らしめた悪名高い絶滅計画のひとつをハイドリヒにちなんで命名した。