「だから戦争はしちゃいかんです」死刑を宣告された兵曹長の真実を知った息子たち~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#43
だから戦争はしちゃいかんです
資料をざっと読んでいただいた後、健二さんと浩さんに、死刑宣告時の写真をお見せした。 ディレクター「これが死刑宣告を受けていらっしゃるときの写真です。」 健二さん「ああ、これが。」 浩さん「だまってこれ、(死刑の宣告を)聞いとったんやろな。」 健二さん「まあ、通訳が通訳しただろうから。残念は残念だったろうな、死刑判決を受けた時は。なんでって思ったかもしれんけど。だから戦争はしちゃいかんですね、そう思います。ほんと。人間がおかしくなる」 浩さん「誰も幸せになっとらんですよね。惨殺されたアメリカの飛行士にも当然家族がおられて、なんでこんなところで殺されてって、なるでしょうしね、殺された米兵の家族から考えれば、関わった者はみんな殺してくれってなるでしょうね」 〈写真:次男・健二さんと三男・浩さん〉
誰も幸せになれてない
死刑の宣告の後、再々審で重労働40年に減刑された炭床静男は、10年をスガモプリズンで送ったものの、41歳からの37年間を故郷で過ごした。一方、藤中松雄ら7人は、1950年4月7日、絞首刑が執行された。藤中松雄は農家出身で、20歳で召集され28歳で命を絶たれている。 浩さん「不幸な時代ですよ。藤中さんみたいに召集で行かれた人と、うちみたいに自分たちで入隊して行った職業軍人とではまた違うでしょうしね。そういう人たちが命令する立場で、『お前やれ』って新参の人たちにやらせたんでしょうからね。お気の毒というか、言葉がないですね。ご家族についても、やられた方もやった方も誰も幸せになれてない」 〈写真:晩年の炭床静男〉
まさか、こんな資料があるとは
資料を見て、石垣島事件の内容を知った浩さんは、 浩さん「まさかこんなのがあるとは。父親も一切、しゃべらんかったはずで。父が亡くなって、もうまもなく30年ですけど、こういう話が出るとは思いはしなかったやろうけど」 健二さんは、父が書いたノートを見たことがあったという。 健二さん「反省帳のノートがあった。私が見つけてお父さんに見せたら、すぐ取り上げられて行方不明。小学生のころだったので、今だったら取っておいたんですけど。中身を見たら巣鴨とかなんとか、戦争に関するやつだなと思って。親父に言ったら取り上げられた。親父が亡くなってから見たこともなかった」 父のことをもっと知りたかったという健二さんは、あの時ノートをとっておけばと何度も悔やんでいたー。 (エピソード44に続く) *本エピソードは第43話です。 ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。