初代ロードスターの原点に迫る【前編】コンセプトは女性向けコミューターだった!『懐かしのデザイン探訪』
MANA(マツダ・ノースアメリカ)は先行開発拠点
トヨタのキャルティや日産のNDIがデザインに特化した拠点であるのに対して、MANAのデザインチームはPPR(プロダクト・プランニング&リサーチ)部門に属し、商品企画と一体になって先行開発提案を行うのが特徴だった。 81年10月に商品企画担当として、米国モータトレンド誌のジャーリストだったボブ・ホールがMANAに加入。三栄のモーターファン誌のロサンゼルス通信員も務めていたボブは日本語が堪能で、当時マツダの技術開発のトップだった山本健一(後の社長)にインタビューした縁でMANAに誘われた。 そして83年には、本社デザイン部で前田又三郎部長に次ぐ職位にいた福田成徳が山本に代わってMANAに赴任し、副社長に就任。同じ83年にオペルから若手のマーク・ジョーダン(86年にGMデザインのトップに就くチャック・ジョーダンの息子)、BMWから経験豊富な俣野努が相次いでMANAに移籍してきた。いずれもボブ・ホールが声をかけ、福田が面接選考したデザイナーだ。 こうしてMANAのデザインの陣容が充実するなか、1/1モデルを制作できる本格的なデザインスタジオの建設計画がスタート。そして83年11月、NAロードスターの原点となるP729プロジェクトも始動することとなった。
スポーツカーだけど、コンセプトはコミューター
かつて50~60年代に英国を中心に多くのオープンボディのライトウェイトスポーツが輩出され、欧米で人気を得たが、70年代の排ガス規制や安全法規の強化によって根絶してしまった。89年に登場したNAロードスターが、それを復活させたクルマとして高い評価を得たのは事実だろう。 しかしMANAで始まったP729は、クラシックなオープンスポーツの現代版を狙ったものではなかった。八木がこう語る。 「コンセプトは若い女性が通勤や買い物で乗るコミューター。日本ではスポーツカーを非日常的な乗り物と受け止めるけれど、アメリカは違う。初代RX-7もアメリカではそういうふうに使われていた。そこで女性に受け入れてもらいやすいように、シンプルなデザインを目指した」 70年代からアメリカでは、トヨタ・セリカを筆頭に日本製のクーペが女性需要を掴み、「セクレタリーカー」のブームを巻き起こした。もちろんセクレタリー=秘書だけが、それを買ったわけではない。セクレタリーを働く女性たちのイメージリーダーとして、「セクレタリーカー」という言葉が生まれたのだ。初代RX-7もそのブームに乗って、アメリカ市場に浸透した。 ちなみにP729が始まる前に、2代目RX-7のデザインチームがMANAを訪れ、初期のイメージ創りを行っている。2代目RX-7が初代より大きく、パワフルになることを、MANAのメンバーは充分にわかっていた。 「それもあって、コンパクトで手軽なFRのスポーツカーが必要だいう話になった」と八木。初代RX-7の需要を受け継ぐためには、女性向けのコミューターというコンセプトが必然だったわけだ。 以下、後編に続く。
千葉 匠