初代ロードスターの原点に迫る【前編】コンセプトは女性向けコミューターだった!『懐かしのデザイン探訪』
アメリカでデザインするということ
マツダが初めて米国にデザイナーを駐在させたのは78年6月だった。まずはデザイン部の先行開発グループのリーダーだった内田亮が渡米し、翌79年2月に吉原昭に交代。続いて80年2月に山本裕士が派遣された。ここまでは駐在デザイナーは一人だけ。二名体制にしてデザイン活動を本格化させたい機運が次第に高まり、若手の八木が派遣されることになった。 トヨタは72年に米国デザイン拠点のキャルティ(Calty Desgin Reserch Inc.)をカリフォルニア州エルセグンドに設立。アメリカ国外のメーカーがアメリカにデザインスタジオを設けたパイオニアだ。78年には同州ニューポートビーチの新社屋を建設して移転した。 当時すでにアメリカは日本メーカーにとって大きな市場になっていた。そこで共感される製品を生み出すには、現地に拠点を設け、現地で暮らしながらデザインする必要がある。日産は80年6月、NDI(Nissan Design International/現在のNissan Design America)を同州サンディエゴに開設。三菱もカリフォルニアにスタジオを作る計画を進めていた。 しかし80年当時のマツダはアーバインに駐在員事務所があるだけ。それもロータリーエンジンのリビルドを行う工場に間借りしたような事務所だったから、デザインの実務などできない。そこで駐在員事務所とリビルド工場を統合して81年4月にMANAを設立する一方、小規模ながらもデザインスタジオを設けるべく社屋を建て替えることになった。 八木は72年にマツダ入社。ルーチェやコスモなど上級車種のグループでエクステリアデザインの経験を積んだ後、先行開発グループに移って空力研究に携わっていたときにアメリカ駐在を命じられた。「赴任したときは社屋が建て替え工事中だったので、ニューポートビーチにアパートを借りて、そこで山本さんと二人で仕事していた」と八木は振り返る。 最初の大きな仕事は「B2000の先行開発だった」という。85年に米国で発売されたピックアップである。アパートでスケッチを描くうちに新社屋のスタジオが完成。しかしまだ1/1クレイモデルの設備はないスタジオだった。