松岡功祐が約束を交わした"明治のエース"の背信。ドラフト「自由獲得枠制度」が引き起こした裏金問題の衝撃。
【連載⑧・松岡功祐80歳の野球バカ一代記】 九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。 【写真】メジャーでも活躍! 松岡功祐が惚れ込んだ逸材 つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。今回は2001年ドラフト会議から導入された「自由獲得枠制度」による有望な選手の獲得競争の中で、松岡のスカウト人生を揺さぶったあの「事件」に迫った。 * * * スカウトとして有望選手を探してきた松岡が、獲得したくても指名できなかった選手がいる。1997年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団した川上憲伸だ。 「明治大学の後輩でもある川上を取りたかった。いいボールを投げてましたから。だけど、慶應大学には高橋由伸がいたんです。由伸が地元・神奈川の桐蔭学園の出身だということもあり、球団の方針で『由伸1本で』と決まりました」 この年のドラフト会議は現行のシステムとは違い、大学生・社会人には逆指名権が与えられていた。 「スカウト部長に、『悪いけど明治大学には出入りしないでくれ』と言われました。由伸側が気を悪くするといけないからという理由です。だから僕は憲伸に『悪いけど、横浜は指名できない』と謝りましたよ。本当にいいピッチャーでしたから、残念でしたね」 1992年まで入札抽選方式で行われていたドラフト会議だが、1993年から上位2名に限りアマチュア選手が入団したい球団を選ぶことができる「逆指名制度」が導入された。そのため、水面下で猛烈な獲得競争が行われた。 各球団の獲得合戦の末に、高橋は読売ジャイアンツを逆指名した。横浜は平安(現・龍谷大平安)のサウスポー・川口知哉を1位指名したものの、抽選で外した(石川県立町野高校の谷口邦幸を指名)。 川上憲伸同様、松岡がその才能に惚れ込みながらも指名まで至らなかった選手がいる。そのひとりは1996年ドラフト1位(逆指名)で福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンク)に入団した井口資仁だ。 「國學院久我山時代から彼には注目していました。青山学院大学時代にアトランタオリンピックにも出ましたね。結果的にホークスを逆指名したんですが、井口はベイスターズを最後まで候補に残してくれました」 もうひとりは2003年ドラフト1位(自由獲得枠)で阪神タイガースに入団した鳥谷敬。 「鳥谷がいた頃の早稲田大学の監督は野村徹さんでした。練習を見に行くと『松岡、上がって上がって』と言ってもらい、野球談議に花を咲かせました。野球に対する情熱がものすごかったですね。最高の監督でした」 松岡が足しげく早稲田大学に通ったものの、鳥谷が選んだのは星野仙一監督が指揮をとるタイガースだった。 「タイガースが有利だというのはわかっていましたが、僕にも意地があります。最後まで粘りました。鳥谷が発表する前に星野から電話がかかってきました。『鳥谷はうちに決まりました』と。明治大学の先輩に対して仁義を切ってくれたんでしょう。本当に律儀な男でした。スカウトがいくら頑張っても、縁がないと取れません」 ■プロ野球界を揺るがした裏金問題