「最初から最後まで自分らしくできた」泣いて笑って中日の“泣き虫タジ魔神” 田島慎二が現役引退
◆ 「言えるのは、今の僕はスッキリしています」 中日・田島慎二投手が今季限りで引退する。 球団歴代10番目となる461試合登板右腕。セットアッパー、クローザーを経験し球宴2度、強化試合のメンバーとして侍ジャパンのユニホームにも袖を通した。9月下旬には引退会見、そこで後輩たちへ送ったメッセージは――。 「まず僕は、後輩たちにとってはいい先輩じゃなかったと思うんですよね(笑)。めちゃめちゃ練習するわけでもないし、研究熱心でもなかった。どちらかと言うと、今の若い子たちの方がいろいろ調べて、練習に取り組む姿勢は僕が見習わないといけないくらい。言えるのは、今の僕はスッキリしています。それは、最初から最後まで自分らしくできたからだと思う。気持ちよく最後までできたのは、そこだと思う。後輩たちには、やりたいと思うことをどんどん取り組んでもらって、辞めるときに自分が決めたことをやってきてよかったと思えるように日々、取り組んでもらえたらいいんじゃないかと思います」 強烈なデビューイヤーから先輩とあまりつるまず、かといってチーム内で浮くわけでもない。30代中盤ともなり、年齢の近いチームメートとはため口で会話する。ルーキーだった2012年には56試合登板で防御率1.15。セットアッパーを務めた。 そこからは紆余(うよ)曲折。クローザーを務めることもあれば、最後は敗戦処理。ブルペンのあらゆる立場を経験できたのも「しなきゃしないで1番いいんですけど、いろいろある役割を知れたという意味ではよかったと思いますよ」と振り返る。 思えばデビューイヤーのチーム内ニックネームは印象深い。 嫌みがあるタイプではないとはいえ、張り切る部分もある。だから「1年目のベテラン」。振り返れば、その時からやりたいようになって現役を終わりたいタイプだった。何とか球団にしがみついて、第2の人生を送るだなんてこれっぽっちも思っていなかった。それは今でも変わっていない。だから振る舞いも独自。行きたい時に、行きたい相手と、行きたい場所へ。 かといって、気遣いもできるから、店側に予約をとってコーディネートする側にも回れる。ただ勝手なのではなく、プライベートなゾーンをおかされたくないだけ。起用なのだ。相手やシチュエーションを考えて上手に振る舞い、場を盛り上げて心から楽しんだ。 地頭がキレる。1学年上の大野雄大に言わせると「僕の頭脳です」。ともに沖縄自主トレを行ってきた。話せば分かる。大野は田島と話をしていて、起用タイミングや残りのベンチ入り選手などを考慮した勝ち方の話をしていて「ホンマに頭がええんやな」と感じたひとり。 話は飛んで、いつか大野監督が誕生した時は「どうしてもいてもらわな困る」存在なのだとか。もちろん、大野は来季も現役。大野自身が指導者・大野を想像していないほど未来の話。左腕は冗談半分で話した。 笑顔でユニホームを脱げる選手は少ない。田島は「名古屋出身で小さい頃、ナゴヤドームに行くのが好きで仕方がなかったんです。野球選手になれるなんて、本当に思えるわけもなく、でも実際になれた。そして、1流ではないですけど、1軍で長くいないと経験できないこともできました。夢がなかって、幸せです」と話す。 2011年のドラフトでは泣いた。「僕の野球に父がつきっきりで、家の中が僕中心に回っていました。なので、父や家族のことを思って『プロになってよかった』と思った涙でした」と振り返る。引退会見でも泣いた。理由は大野や祖父江に報告しにいったエピソードが出てくる。 「大野さんと祖父江さんには『土産があるから、家まで持っていくね』と嘘をついて。電話じゃなくて、直接伝えたかったんです。大野さんからは『お疲れ様は最後までとっておくわ』と。祖父江さんは『オレも分からないけどな』と言ってたけど、『まだまだいけるぞ』と僕の気持ちを伝えました」。長く時間をともにしたピッチャーとのやり取りで涙腺は緩んだ。 10月5日のDeNA戦(バンテリン)でセレモニーが行われる。「球団には感謝しています。ありがたい場所です。しっかりファンにあいさつして、お別れをします」。泣いて笑って、“泣き虫タジ魔神”は現役生活をスッキリ終える。 文=川本光憲(中日スポーツ.ドラゴンズ担当)
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