長寿食研究家 永山久夫:世界に長寿の花を咲かせましょう!
長寿研究は家業にルーツ
永山は、1932年に福島県楢葉町の三代続く麹屋(こうじや)の家に生まれた。味噌(みそ)や甘酒を当たり前のように各家庭で作っていた時代は、かなり繁盛していた。室(むろ)の中に入ったり、米を蒸したり、麹菌をまぶしたり、家業の手伝いに駆り出された。1年ごとに室を壊して、菌を新しくする。身体で覚えた麹の扱い方が、長寿食研究にも役立っていると振り返る。日本人なら誰しも、醤油(しょうゆ)・味噌・酒など麹が醸す食材を毎日口に入れている。そう、「発酵」はまさに和食の基本で健康食の源なのだ。 永山が大事にしている宝物がある。91年ものの梅干しだ。子供が生まれたら梅干しを漬ける習慣が、故郷にはあった。「疫病がはやったらなめろ」と母親に教えられていた。地方の全寮制大学に入ったものの結核を患い、自宅で療養中に医学や食の勉強をしながら小説や漫画を雑誌に投稿していた。入賞の常連だったので、25の時、漫画で生きていくことを決意して上京。当時不安な心境で母親が送ってくれた行李(こうり)の底から梅干しが出てきた時は、さすがに胸が震えた。東京にはどんな菌がいるか分からんからといった親心が身に染みた。その梅干しは水晶のような塩を吹き出して、今もじっと永山の身体を見守ってくれている。
田の神様に導かれ
永山邸の庭の真ん中に鎮座する、ほっこり顔の石像。以前、京都の古道具屋の前を通り過ぎた時、ふと呼び止められたような気がして立ち戻った。一目見るなり「これだ!」とひらめいてすぐに買い求めた。鹿児島などで、「田の神さぁ(タノカンサー)」と呼ばれ親しまれている豊作の神さまで、ご飯をよそうしゃもじを持っている。「もっと食の大事さを広めなさいというメッセージだと受け止めていたら、タノカンサーのように耳は大きくなるわ、顔が似てくるわで、まさに守護神になっていった」という。 しかし、和食の伝道師になるまでの道のりは決して平たんなものではなかった。結婚して子供は授かったものの、妻がその後体調を崩して亡くなった。幼子をおんぶして、仕事の売り込みに駆け回ったが、その後も長期間鳴かず飛ばずで、先の見えない不安な日々が続いた。その傍ら古代から明治までの和食を復元する研究などにも没頭。また、多くの長寿村を訪ね、長生きの人の食事には、それぞれの風土が育てた「郷土和食」が息づいていることを実証した。 70歳の頃に納豆ブームが到来、納豆本で日の目を見た。2013年、81歳の時に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産として「和食:日本人の伝統的な食文化」が登録され、「和食」が世界的に注目を浴びる。さらに2019年、日本の食文化史研究に関する功績が認められ「平成30年度文化庁長官表彰」を受け、やおら出番が増えていくことになる。