世田谷一家殺害から15年 どんな事件? 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
世田谷一家殺害事件から30日で発生から15年を迎えます。年の瀬に起きた凄惨なこの事件はいまもまだ未解決のままです。かつてであれば殺人事件の時効の15年にあたる年月(現在は廃止)がたった事件の概要と捜査の状況について振り返ります。
■指紋や多くの遺留品
2000年12月31日、東京都世田谷区上祖師谷3丁目に住む会社員、宮沢みきおさん(当時44)の自宅で宮沢さんと妻で学習塾経営の泰子さん(同41)、小学2年生の長女にいなさん(同8)、保育園児の長男礼君(同6)一家4人が死んでいるのを隣に住む泰子さんの母親が見つけました。発生は30日深夜とみられ、警視庁捜査1課は現場の形状から殺人事件とみて成城警察署に捜査本部を設置します。 殺され方は残虐でした。礼君は首を絞められての窒息死、残りの3人は数十個所の刺し傷があり、しかも急所の心臓付近ではなく胸の上部から首および顔に集中していました。なかには死後の刺し傷もありました。 年末の大事件で捜査本部は100人体制で犯人を追います。この事件の特徴は多くの遺留品が残されていた点。特に犯人にとっては致命的ともいえる指紋、凶器の包丁2本、宮沢さん一家には誰もいないA型の血液跡など。したがって当初は犯人が挙がるのも時間の問題という楽観的な見方もあったのです。、 特に指紋は決定的証拠でした。過去に犯罪歴がある者と照合したら一致せず、捜査本部は宮沢さんの交友関係を中心に、また付近で手に入る電車の切符などありとあらゆる照合を徹底的に行いました。しかし該当するものは出てきません。
■さまざまな説が浮上
動機について捜査本部は初動時から2つの異なる見解を有していました。泰子さんが自宅で経営していた塾の授業料約20万円が抜き取られていたのでカネ目的という線と殺害方法があまりに残酷であったので恨みの線で迫っていきます。 カネだとしたら強盗殺人。ところが授業料以外に室内に置かれた現金や通帳は手つかずでした。恨みというとらえ方は、当時までの一家殺害事件の多くが親族や知人という顔見知りであったというところから捜査がなされるも該当者ゼロ。みきおさんの仕事先や泰子さんの塾経営から直結するようなトラブルも認められませんでした。 そもそも4人を殺めるのが目的であれば包丁1本だけで押し入る(残りの1本は宮沢家のもの)とは考えにくい……と、どちらにも決め手がないまま1か月も経つと早くも手詰まり感が漂い始めました。 一般的に、殺人事件が発生して捜査本部が立つと最初の3日間ぐらいは1日に2、3回、1週間でも毎日。その後は日を空けて記者会見が行われます。1か月も経つと記者が質問しても「ありません」「分かりません」という答えしか返ってこない「ナイナイ会見」となりがちです。 それくらい初動捜査は重要で、世田谷の事件は指紋という決定的な証拠があって一挙に注力したのは間違いとは言い切れないものの、今となってみると地取りなど他の捜査方法も指紋以外で充実させた方がよかったのではないかという反省の声も出てきます。 結局、動機も不確かなまま、その後さまざまな説が出ては消えていきます。 犯人がはいていた靴跡は、韓国で製造していた28センチと分かり、韓国内で400足しか作られていません。そこで韓国滞在歴がある可能性が高いとみる見方も示しました。それもその後の捜査で確実とはいえず日本製の27.5センチでも残りうるとわかります。 深夜に宮沢さん周辺でトラブルを騒音などの起こしていたスケートボーダー説も浮上しました。遺留品の中にそうとうかがえるものがあるからです。ただこれも具体的な犯人像にまで絞り込めていません。