開戦直前まで回避を願っていた印象 日記を精査すると前のめりの姿勢
静岡県立大教授の森山優(あつし)(62)は、日本歴史学会発行の「日本歴史」誌編集部から依頼され、同誌2023年8月号に「『百武三郎(ひゃくたけさぶろう)日記』に見る昭和天皇の対米開戦決意」との一文を寄せた。 【写真】宮内大臣(当時)を務めた松平恒雄=1934年 森山は歴史学者として、日米開戦にいたる政治過程を研究。1941年の開戦前後の数年間に注目し、政府や軍の幹部が何月何日にどこで何をし、どんな発言をしていたかを史料に基づき実証的に研究してきた。2012年には「日本はなぜ開戦に踏み切ったか」を著している。 戦前から戦中に昭和天皇の侍従長を務めた百武三郎の日記は、子孫により19年に東京大に寄託され、21年から閲覧可能となった。戦前、統治権の総攬者(そうらんしゃ)で軍の大元帥という絶対的な立場にあった天皇が、1941年の開戦決定にどんな役割を果たしたか。森山は百武の日記で昭和天皇の言動を改めてたどった。 従来、天皇は開戦直前まで戦争回避を願っていたという印象が強かった。41年9月6日、政府と軍の幹部が国策を決めた御前会議では、祖父の明治天皇が日露戦争開戦時に戦争回避を願って詠んだ歌「四方(よも)の海」を朗読した。10月9日には皇族軍人の伏見宮(ふしみのみや)が米国に対する開戦やむなしとする「主戦論」を唱えたのに対して議論となり、百武の日記に「やや紅潮ご昂奮(こうふん)あらせらるる様拝す」と記された。 しかし百武の日記を精査した森山が実感したのは、天皇が41年10月中旬以降、これまでの資料で想定されたよりも、開戦に前のめりだったということだ。10月13日の日記によると、天皇と会った宮内大臣の松平恒雄(まつだいらつねお)が「すでに覚悟あらせられるご様子」と述べ、天皇の政務を補佐する内大臣の木戸幸一も「ときどきご先行をお引き止め申し上ぐる」と語っていた。
朝日新聞社