最後の将軍が近代化の旗手? 徳川慶喜の「大坂城脱出ツアー」
戊辰戦争のさなか、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜がひそかに大坂城を抜け出し、よもやの敵前逃亡におよんだ真意とは──。幕末維新史のなぞに迫るツアーが大阪城公園周辺で開かれ、歴史ファンらが逃避行の足跡を辿り、慶喜の胸中に思いをはせた。城詰めの学芸員が解説と水先案内人を兼ねる豪華なツアーに同行した。 幕末・維新150年の節目 大阪にある「ゆかりの地」とは?
新旧対決ではなく新国家建設の先陣争い
「学芸員とめぐる慶喜の大坂城脱出ツアー」は有料イベントで、大阪城天守閣が「幕末・維新150年」を記念して企画。前半のセミナー会場は天守閣に隣接する複合施設ミライザ大阪城。参加者はランチに舌鼓を打った後、天守閣に常駐して大坂城史を深掘りする宮本裕次研究副主幹の講演に耳を傾けた。 宮本さんは慶喜の大坂城脱出に至る時局の流れをつかめる資料を配布。1867年から68年にかけて、大政奉還、王政復古クーデターを経て、鳥羽・伏見の戦いへ。ところが、幕府軍が敗北したものの緊張感が続く中、大坂城にいた慶喜が兵を置いたまま城を抜け出し、天保山沖から海路江戸へ撤退。将軍という最高リーダーが敵前逃亡するという異例の展開となった。歴史ファンにしてみれば、慶喜には「無責任」「自分勝手」などの好ましくない印象がつきまとう。宮本さんの分析はいささか異なる。 「保守的で遅れた幕府が、進歩的で近代化した新政府に敗れたというイメージがある。しかし、幕府は古い体質を引きずって弱り切っていたわけではない。将軍自身が先頭に立って近代国家建設を目指していた」 遅れた体制派、先駆的な革命軍という単純な対立構図はあてはまらないようだ。宮本さんは「では幕府はなぜ倒れたのか」と問題提起をして、次のように話す。 「薩摩長州は幕府に頼ることなく日本を掌握して近代化を推し進めようとしていた。幕府がすーっと燃え尽きるように消えたら、明治維新へすんなり移行しただろう。しかし、慶喜自身が積極的に近代化を推し進め、幕府が文明開化をスタートさせた。薩長にとって、これはまずい、倒さなければならないということになり、討幕派を刺激して厳しい対立を生み出した。慶喜は幕府の古い体質を引きずって敗れたというより、薩長と渡り合って、どちらが新しい国家建設の先陣を切るかという抗争の中で敗れたと考えた方が、当時の実情に近いのではないか」 新旧対決ではなく、新国家建設の先陣争い。宮本さんによると、脱出に至るまでの慶喜の大坂城での動きに、次への野望が透けて見えるという。慶喜は城内へ欧米各国の要人を招き入れ、将軍就任の披露会見を繰り返し開く。大坂城は華やかな外交の舞台だった。 「徳川将軍は諸外国に外交上の元首ととらえられ、慶喜は外国要人から堂々たるリーダーと評価される。外交的元首の立場を利用して朝廷を説き伏せて、国の方針を攘夷から開国へ変えてしまう。国際港としての兵庫(現神戸)の開港、巨大市場である大坂の開市は、新政府の政策ではない。 大政奉還後も、慶喜の意志によって幕府が予定通り進めて実現したものだ。開国への政策転換と実施は慶喜の大仕事だった」(宮本さん) 権力を駆使して先手を打つ慶喜。将軍の手ごわい大仕事に危機感を募らせた薩長が、武力闘争による倒幕へ突き進んでいくわけだ。