手の平で踊らされた者同士で語り合いたくなる 第1回本格ミステリ大賞作家のデビュー30年目の衝撃作(レビュー)
『日曜の夜は出たくない』に始まる猫丸先輩シリーズや『星降り山荘の殺人』『壺中の天国』など、ハイクオリティの傑作本格ミステリを生み出し続ける倉知淳。デビュー30年の節目に贈るのは、驚愕の奇想に緻密な論理で想像の斜め上の真実を導き出す、驚きのミステリ『死体で遊ぶな大人たち』。本書の魅力を書評家の村上貴史氏が解説する。 *** 倉知淳のデビュー作っぽい単行本が刊行されたのが一九九四年のこと(どのように「っぽい」のかは後述)。それから三十年が経過した本年に刊行された新作が『死体で遊ぶな大人たち』だ。密度の高い中篇が四篇収録されている。 この四篇の共通項は、なんといっても死体だ。死体で遊ぶな、と題名で禁じられてはいるが、作中では、各篇で著者によってきっちりと“死体”が使いこなされている。その使いこなしに各篇ごとの個性があって愉しい。 そんな本書の第一話が、「本格・オブ・ザ・リビングデッド」だ。この作品は本書のなかでも特異な一篇なのだが、その特異性に先立ち、あらすじを紹介しておこう。 大学の軟式テニス同好会の男女を中心とする学生たちが、N県の山の頂にあるセミナーハウスで合宿していた。バーベキューの最中に、彼らは、突如発生したらしいゾンビたちに襲われた。次々と仲間が噛み殺されていく。反撃を試みる学生たちだったが、ゾンビの数は夥しく――後に学生たちは麓の町には二万体以上のゾンビがいたのではと推測することになる――セミナーハウスに閉じこもるしか手がなかった。携帯電話も通じない密室状況のセミナーハウスのなかで、さらに一人の学生が命を落とした。被害者の状況から、犯行はゾンビによるものと思われる。だが、ゾンビはどうやって宿に侵入し、そしてどうやって宿から消え去ったのか……。 というわけで、ここまで紹介すればおわかりだろうが、第一話の特徴とは、数年前に大評判となったゾンビミステリと同じ設定であることだ。とはいえ、倉知淳が勝手にその作品の設定を使ったわけではない。その人気作品の著者からきちんと許可を得ているそうだ。もちろん本作の仕掛けは倉知淳のオリジナルであり、不可能としか思えない事件を成立させるトリックは実に鮮やかだ。“こうやったんだ”と説明されると、もう納得するしかない。伏線もシンプルかつ大胆。読者の記憶に刻まれるあの場面が伏線なのだ。本家にひけをとらない出来映えである。ゾンビに囲まれるサスペンスとともに、秀逸な犯人あてを堪能されたい。なお、某作品の真相等には一切触れていないのでご安心を。 続く第二話以降は、倉知淳のオリジナルの設定のミステリである。第二話の「三人の戸惑う犯人候補者たち」では、都が設置した〈違法行為等諸問題に関する相談所〉なる組織が物語の軸となる。警察には知らせずに犯罪に関する話を聞くというこの組織に、相談者がやってくるのだ。ある日の相談者は、人を殺したかもしれない、という青年だった。バーで酒を飲んでいるうちに記憶が途絶え、目が覚めると見知らぬ部屋で銃を握っていて、銃殺されたらしい男が目の前に横たわっていたのだという。その後部屋を逃げ去ったが、はたして自分は人を殺したのか……。この曖昧な相談が、題名が示唆するような妙な展開を示すのである。そう、第一話とは、謎のタイプがまるで異なるのだ。そしてその不可解な謎に、倉知淳はきちんと合理的な解決を示してみせる。 第三話「それを情死と呼ぶべきか」は、四十年前の心中と思われる事件が題材だった。警察も最初はそう判断しかけたのだが、よくよく調べてみると、それと矛盾する証拠が出てきた。死亡推定時刻を考えると、二人の死者のうち、先に死んだ方がもう一人を殺したとしか考えられないのだ……。元新聞記者が、当時取材したその事件について、なんと動画配信者に相談するという枠組みで倉知淳は謎を読者に示す。その際、“謎を解くのに十分な手掛かりを読者に示した”ことを念押ししたうえで謎解きを行う点が、第一回の本格ミステリ大賞小説部門を『壷中の天国』で獲得した著者らしくてよい。その推理での死体の扱いもまた、アクロバティックだ。 最終話「死体で遊ぶな大人たち」では、バーのカウンターで一人で呑んでいた主人公が、男性二人組の客の会話を耳にする、というかたちで物語が進む。三ヶ月前に奥多摩で発見された奇っ怪な死体についての会話だ。その死体は、撲殺された男性の両腕が肩で切断されて持ち去られ、そこに切断された女性の両腕が置かれた状態で発見された。要するに“すげ替え殺人”だったのである。その会話に興味を持った主人公は、二人組に同席し話を聞く……。強烈な謎が印象深いが、それ以上に、“バーで耳にした話”が予想も付かない方向に転がっていく刺激が堪らない。しかもその転がり方が、各局面でしっかりと理詰めなのだ。そして結末において、まさかこんな真相が、と脳天から爪先まで衝撃が走る。いや快作。 本書の四篇を読み終えると、いかに倉知淳の読者コントロールが巧みだったかを痛感することになる。それを“あんな手法で実現していたなんて”と、本書を読み終えた者同士で、つまりはまんまと操られた者同士で伏せ字抜きで語り合いたくなるのだ。それほどまでに冴えた技が、『死体で遊ぶな大人たち』では駆使されているのである。 さて、倉知淳の原稿が初めて書籍化されたのは一九九三年のこと。若竹七海が大学生の時に経験した謎めいた出来事の真相を小説として公募するという企画に別名義で応募し、見事、若竹賞を受賞し、若竹七海による問題編、及びその他の解決編とともに『競作 五十円玉二十枚の謎』として書籍化されたのである。つまり、“解決編の一つ”として、しかも別名義でのデビューであった。そしてその優れたセンスがおそらく評価されたのであろう、翌年、初の倉知淳名義での書籍がさっそく刊行されることとなった。これが冒頭にしるした「っぽい」の詳細である。 その「っぽい」から三十年という節目に刊行された本書『死体で遊ぶな大人たち』は、大胆と洗練が一体となった技法を用いて書かれたミステリであり、奇想と驚愕が融合した刺激を堪能できる。しかも、ふわふわとしたユーモアに満ちていて、すらすらと読み進められる。もちろん死体の扱いも絶品。まさに、節目を飾るに相応しい一冊なのである。 [レビュアー]村上貴史(書評家) むらかみ・たかし 協力:実業之日本社 J-enta Book Bang編集部 新潮社
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