1950年代の米国で起きた悲惨な「ウランラッシュ」、核の時代の採掘ブームと残る負の遺産
「価値のない副産物」が一転して需要増、鉱山に押し寄せた人々を健康被害が襲った
1950年代、米国ではゴールドラッシュならぬウランラッシュが起きていた。ウランを掘り当てて一儲けしようと、西部に押し寄せた労働者たちは、つるはしやシャベルとともにガイガーカウンターを持って鉱山へ入った。富への飽くなき欲求は莫大な利益をもたらしたが、核の時代の幕開けとともに始まった埋蔵ウランをめぐる米国最後の鉱物ラッシュは、いつしか人々の記憶から消え、後にはゴーストタウンだけが残された。 関連ギャラリー:「ウランバーガー」も登場、50年代米国のウラン採掘ブーム 写真4点
「価値のない副産物」だった時代
ウランは、昔から需要のある鉱物だったわけではない。1881年に、コロラド州モントローズ郡で黄色い鉱物が見つかったとき、放射能はまだ発見すらされていなかった。 ニューメキシコ、コロラド、アリゾナ、ユタの4州の境界線が交差するフォーコーナーズの近くに、現在はウラバン・ミネラル・ベルトと呼ばれるウランの鉱山地帯がある。20世紀初頭には稼働していたが、生産量はそれほど多くなく、目当ての元素はほぼ、ウランとともにカルノー石に含まれるラジウムとバナジウムだった。バナジウムは鉄鋼の製造に使われる。 第二次世界大戦が始まった頃にはまだ、ウランは「バナジウム精製における価値のない副産物」にすぎなかったと、歴史家のバーナード・コンウェイ氏は言う。 しかしそれを変えたのが、世界初の核兵器開発を極秘に進めていたマンハッタン計画だった。それは、ウランを使用した爆弾と、プルトニウムを使用した爆弾の両方を開発するという国家プロジェクトだった。
核の時代と高まるウラン需要
1945年7月、「トリニティ」と名付けられたプルトニウム爆弾の実験が成功すると、それからわずか1カ月足らずで、同様の爆弾が長崎に投下された。その3日前には、実験されていないウラン爆弾が広島に落とされた。 この2つの原爆投下から間もなく戦争は終わり、核の時代が始まった。ウランとその派生物であるプルトニウムは突如として、ただ価値が高いだけでなく、国家安全保障に関わる物質とみなされるようになった。 戦後、核拡散の世界的な議論が巻き起こるなか、米国は、すべての核問題を監督する民間主導の原子力委員会を設立した。 マンハッタン計画は、使用するウランのほとんどをベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)から購入していたが、自国の兵器に使用するウランは自国で採鉱することが望ましいと米政府は考えていた。また、冷戦の緊張が高まるなか、ソビエト連邦の手にウランが渡らないようにするためにも、国内で取れたウランを独占する必要があった。 政府が国内でのウラン採掘事業をすべて所有し、運営することもできたが、原子力委員会は民間人に金を支払って探鉱と採鉱を任せることにした。米国人の創意工夫と民間のノウハウが必要だというのが、委員会の主張だった。 しかし現実には、歴史家のネイト・ハウスリー氏によると、米連邦政府は組織化された労働力への不信と、ウラン産業の監督責任を州政府に押し付けたいという思いから、民間委託を決めたのだという。1948年、原子力委員会はウラン鉱石が発見された際のボーナスと買い取りの最低保証価格を約束すると発表した。こうして、連邦政府を唯一の顧客とする、国内における活発なウラン採掘競争が始まった。