池松壮亮、東出昌大、鞘師里保 今秋注目の俳優陣から“読む”いまの時代や社会
映画やドラマ、演劇といったフィクション作品は、私たちの生きる現実社会の鏡だ。とすれば、それぞれの物語世界の中で生きる俳優たちは、私たち一人ひとりの鏡に映った存在だともいえるだろう。俳優たちは自らの心と身体に特定のキャラクターを宿すスペシャリストだが、それ以前に我々と同じく生活者である。そんな彼ら彼女らの動向から、いまの時代や社会を“読む”ことができるのではないだろうか。ここでは池松壮亮、東出昌大、鞘師里保の動きに注目してみたい。 【写真】『十一人の賊軍』に出演中の鞘師里保 ●池松壮亮 若くして名優の地位を確立し、多くの映画ファンから厚い支持を集める池松壮亮。2024年は彼のキャリアの中でもとくに重要な1年だったのではないだろうか。 第77回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に出品された『ぼくのお日さま』と、大人気シリーズの最新作『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』で新世代の若手監督らとタッグを組み、映画俳優としての自身のフィルモグラフィに新たなピースを刻んだ。そのいっぽうで、月9ドラマ『海のはじまり』(フジテレビ系)にレギュラー出演。こちらも主に若手で固められた座組による作品で、池松はその支柱になっていた印象がある。そしてこのような流れを経て、映画『本心』が公開された。 池松にとってこれが9度目のタッグとなる石井裕也監督の最新作である『本心』は、作家・平野啓一郎による同名小説を映画化したものだ。仮想空間でのやりとりが当たり前になった近未来の日本を舞台に、いくら時代が変わっても永遠に変わることのない“人間の心の本質”をめぐる物語を描いている。この映画化の企画は、「これを映画化すべきだ」という池松の提案からはじまったらしい。 本作のジャンルを端的にいうならば、SFヒューマンドラマだろうか。池松が演じる主人公・石川朔也は不意に母を失い、時代の変化から取り残されてしまう。テクノロジーが急速に発達した未来の日本が舞台だが、彼は汗みずくになりながら、温暖化がさらに進んでいるであろう東京中を駆け回る。演じているのは生身の人間なのだから、池松自身にも相当な負荷がかかったはず。精神面だけでなく、肉体面的にもかなりハードな役どころだ。 池松がこの原作小説と出会ったのは2020年の夏のこと。コロナ禍がやってきて、時代が大きくうねりはじめていた時期だ。コロナ禍で俳優たちはそれぞれに新たな動きを見せたものだが、池松は未来(つまり『本心』が公開された2024年現在)に向けて、世の中に一本の映画を届けようとした。映画の企画が実現し、人々の元に届くまでには大変なプロセスを経なければならない。それでも、池松は動いた。そして走った。そんな彼が放つエネルギーを、2024年の私たちは劇場で体感しているわけである。 ●東出昌大 東出昌大は11月の1日から10日まで、舞台に立っていた。場所は三軒茶屋にあるシアタートラム。演目は『光の中のアリス』である。 本作は、現代の舞台芸術の在り方を研究するふたり組の舞台作家「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」によるもので、多くの方が一般的にイメージするであろう演劇作品とはかなり趣が異なる。劇作を務める松原俊太郎が生み出した言葉たちは、そのどれもに強いメッセージ性が感じられ、上演時間の95分間、劇場空間内で氾濫し続ける。言葉と言葉がつながり合ったかと思えば離れ離れになり、かと思えばまた結びつく。その繰り返し。登場人物たち同士の会話は成立しているようで、そこに会話劇が生まれるわけではなく、言葉たちは不意に私たち観客を殴ってくる。 巧みな会話劇を成立させるにはそれ相応の困難があるわけだが、こういった作品にももちろんそれ相応の難しさがある。それは作り手だけの課題や問題ではない。終演後に困惑の表情を浮かべる観客を何人も目にした(「何だこれ!」と口にしている人もいた)。しかし同時に多くの観客が興奮していたのもたしかだ。俳優/パフォーマーの声帯の震えから発生した言葉たちは、いまも私たちの頭の中で反響し続けている。東出は声もいいが、大きな身体を持った彼はステージ上でも映える。本作では宙を飛び交う言葉たちと対置される、俳優/パフォーマーの身体の存在感が重要なのだ。 これまでにも東出は、たびたび舞台に立ってきた。しかもその出演作のチョイスがとても面白かった。たとえば、ちょうど1年前には『ハイ・ライフ』という海外戯曲に挑戦しているし、さかのぼること6年前の2018年には三島由紀夫の集大成的作品『豊饒の海』の舞台化に主演俳優として携わっている。とはいえ、まさかここで「スペースノットブランク」の作品に出演するとは思わなかった。出演の経緯までは分からないが、こういったラディカルなパフォーミングアーツ作品に参加しようというあたりに、表現者としての彼特有のユニークな意志を感じる。世界の果てにひろゆきと置いていかれるのと同じくらい、ユニークである!