『SHOGUN 将軍』なぜ海外で人気に? “違和感”の先にある美術設計と脚本構成力
“囚われること”についての物語だった『SHOGUN 将軍』
映像面に話を移すと、日本建築特有の光の入り方、および光の反射具合を考慮した照明設計がとても見事だ。夜間の場面では、灯明やろうそくだけが照らす室内の暗さが蠱惑的に再現される。この夜の画面はあたかも、作中で言われる「八重垣」に、人の本心が守られているさまを視覚化したかのようだ。按針が必ずしも「善人」ではないこと、真田演じる吉井虎永も同様であること、浅野忠信演じる樫木藪重の豪放さとでたらめさ、そしてサワイ演じる戸田鞠子など、キャラクターひとりひとりが持つ多面性ももちろん魅力である。作り手が天候を意識的に描き分けていることにも注目したい。 1980年に米国NBCが制作し、三船敏郎とリチャード・チェンバレン、島田陽子らが出演したドラマと同じ、ジェイムズ・クラベルの小説を原作とする本作のストーリーは、徳川家康をゆるやかにモデルにした吉井虎永を中心に、関ヶ原の戦いまでの数カ月を描いている(各キャラクターにはそれぞれ対応する実在の人物がいるが、すべてが史実どおりに展開するわけではない)。戦国版『ハウス・オブ・カード 野望の階段』だと形容する人もいる、権力闘争と権謀術数の物語であると同時に、異文化の出会いの物語であり、翻訳で失われるものと失われないものとの物語である。 だがそれらにもまして、このドラマは「囚われること」についての物語である。冒頭、まず按針は獄に入れられる。虎永は大坂城に軟禁される。それから先も、あらゆる場でさまざまな者たちが、かわるがわる「人質」になり、移動を禁じられる。按針はいずれ獄を出て虎永から旗本の位を授けられるが、祖国に帰れず日本に「囚われて」いることに変わりはない。それからまた、鞠子をはじめとする武家の人々は、按針の目から見れば意味不明な決まりごとに縛られている。按針でなくとも、現在の日本に住むわれわれから見ても、そんな非人間的な因習を守る必要はないと言いたくなる決まりばかりだ。 しかし、この作品のなかにいる日本人キャラクターたちは言うだろう。ひとときの自由などわずかな誤差でしかない。死と生は等価であり、われわれはみな限りある生に閉じこめられた囚人である。どこまで行っても脱することのできないこの牢獄のなかで、みずからの尊い生をどのように使い、ささやかな自由をどのように享受するのか。『SHOGUN 将軍』は、このテーマをめぐって展開される壮麗な群像劇である。
篠儀直子