野村克也が怒った「何しとるんや」門田博光との関係…170cmの無名選手が“歴代3位の本塁打数”を打つまで「飛んでくるな…」元同僚が語る“恐怖心”
44歳で引退するまで
常識を超える特訓には訳があった。門田の著書によれば、左ピッチャーを苦手にしていた若手時代、野村監督から「遅い始動をしろ」と助言を受けた。野村解任後、門田はその意味を理解した。近鉄の石本貴昭と対戦した際、偶然振り始めるタイミングが遅くなった。すると、速球がスローに見え、白球はレフトスタンドへ消えていった。 実は、門田の命懸けの練習は左投手対策も含まれていた。当時の南海には右の打撃投手しかいなかったため、2メートル前に立って、始動が遅くなるようにしていたようだ。2年目の71年、左投手からのホームランは31本中1本(3.2%)しかなかった。だが、初めて本塁打王を獲得した81年には44本中14本(31.8%)に増加。“不惑の大砲”と称えられ、二冠王に輝いた88年も44本中15本(34.1%)を打っている。 男はホームランを追求するために、1人で熟考を重ねた。そのため、長期間のスランプに陥らずに済んだ。アキレス腱断裂という大ケガはあったが、打者の生命線である腰や手首の故障をせずに44歳まで現役生活を送れた。 〈すべて自分ひとりでやるから、どこが悪いのかがすぐにわかる。点検が早いのだ。だからすぐに治すことができる。チェックする術がわかっていた。ひとりで組み立てているのだから、どこが動かなくなったのかがすぐにわかる。体重が前へいきすぎているということも、自分でチェックできた。〉(前掲書)
相手選手の本音「打球、飛んでこないでくれ」
それまでの“常識”を迷信に変え、独自の練習で頂点に立った男の打球速度は凄まじかった。ショートでダイヤモンドグラブ賞を受賞し、守備に自信を持っていた水上でさえ、「飛んでこないでくれ」と願っていた。 「恐怖を感じました。一度、セカンド方向に抜けていった門田さんの打球を見て、『なんだ、これは……』と。秋山(幸二)や清原(和博)より遥かに速かったし、外国人のブライアント、デストラーデ、ブーマーの上を行っていた。ソフトバンクのコーチをしていた時、ショートの位置で柳田(悠岐)やデスパイネの打球を見ましたが、怖いとは思わなかった」 92年の引退会見で、門田は「そこそこの頑固もんでないと、そこそこのものも残せない」と実感を込めて言った。昨年1月に74歳で逝去した際、メディアは〈孤高の打撃職人〉〈孤高のバットマン〉と形容した。
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