アメリカ軍も用いたフランス生まれの優秀砲【97式曲射歩兵砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 1940年代に入って実用化された、アメリカのバズーカやドイツのパンツァーシュレッケのような自己推進能力を備えたロケット弾のための発射器は、弾体発射時に高圧が生じないため、砲のような堅牢化は不要で軽量化が可能だった。しかもこれらは一義的には対戦車兵器として開発されたが、対戦車用の成形炸薬弾(せいけいさくやくだん)ではなく榴弾を使用すれば、ソフトスキン(軟目標)も攻撃できた。 だが、このような兵器が実用化される以前の第1次世界大戦終了直後の1910年代末から1920年代初頭は、同大戦における塹壕(ざんごう)戦で得た戦訓をいかに反映させるかが重視され、その目的に向けた砲が開発されていた。 ひとつは、味方歩兵の突撃に際して敵側の「強敵」たる機関銃の銃座や戦車を、直接照準射撃によって粉砕する平射砲、もうひとつは、間接照準射撃によって塹壕に隠れた敵歩兵の頭上から榴弾を壕内に落下させる曲射砲である。しかもこれらの砲は、最前線まで進出して歩兵の傍らで掩護(えんご)射撃ができるように、できるだけ軽量で取り回しがよくなければならなかった。 この点、日本陸軍は平射と曲射の両方に対応した92式歩兵砲を開発し、能力と性能で「完璧」とはいえないものの、類似の兵器中では優秀なものとして評価を得た。 その日本陸軍に1930年代初頭、近代迫撃砲の始祖ともいえるフランスのストークブラン社が、やはり第1次世界大戦での戦訓に基づいて開発した81mm中迫撃砲のセールスを行った。当時、同軍は92式歩兵砲の実用化を決定していたが、将来的な研究のためこの迫撃砲の特許と見本を入手する。 その後の戦訓や研究により、92式歩兵砲も残しつつ、歩兵が運用する曲射砲としてストークブラン81mm中迫撃砲をベースとした97式曲射歩兵砲を開発・装備した。実はストークブラン81mm中迫撃砲は、中迫撃砲の完成形ともいえる優秀な砲であり、アメリカ陸軍もM1中迫撃砲としてライセンス生産のうえ大量に部隊配備。同じ口径なので日本とアメリカの砲弾には互換性があり、ただ発射薬の性能差で射距離が異なったため、両国共に「敵の砲弾の射表」を用意していたという。 曲射砲である迫撃砲は、平射砲のようにピンポイントで目標を狙い撃つ「点制圧火器」ではなく、一定の範囲に多数の砲弾をばら撒く「面制圧火器」である。しかも砲身加熱の心配がない短時間であれば、速射性に優れているのでこのような運用に最適だが、一方で、大量の砲弾の製造・輸送・保管といった兵站上の問題に加えて、機動性の問題も抱えていた。 この点、「デモクラシーの兵器工場」ことアメリカでは砲弾の製造・補給のような兵站上、また、輸送車両が潤沢だったため機動という運用上の問題は生じなかったが、日本ではせっかくの優秀な中迫撃砲にもかかわらず、砲弾の供給と機動がともにネックとなってしまい、その性能をとことん発揮させられないうらみがあった。
白石 光