中村勘九郎「父も、喜んでるなって思いました」坂東玉三郎がカーテンコールで平成中村座の舞台に
今年も『密着!中村屋ファミリー 勘九郎の涙 七之助の宿命 姫路城で歴史が動いた!46年ぶりの衝撃SP』(フジテレビ)が放送されました。 【写真】勘九郎の愛息子・中村勘太郎&長三郎のかわいすぎるショット 2023年、人々はようやくコロナ前の活気を取り戻し始め、歌舞伎の舞台にも観客のあふれんばかりの笑顔と歓声が帰ってきました。中村屋もその期待に応えるかのように疾走。 姫路城と小倉城、ふたつの名城を借景にした「平成中村座」では、歴史的な芸の継承や地元女子学生とのにぎやか交流が。一方、古参の門弟との突然の悲しい別れも…。そんな中村屋ファミリーの激動の一年にカメラが密着。 このたび、中村勘九郎さんのロングインタビューが到着。未公開分を含む、その談話を紹介します。
<中村勘九郎 インタビュー>
――5月は、姫路城で「平成中村座」を上演しました。 世界遺産登録30周年を記念して「平成中村座」ができるというのは、素直にうれしかったですし、プライベートでも姫路城の方にうかがったときに、あの三の丸広場を見て「こんなにいい土地がある」というのは、ずっと思っていたことなので、ワクワクしましたね。 そのワクワクが現実となった瞬間、ロケーション的には、今までの「平成中村座」史上最高のものになったんじゃないかと思います。 あの橋を渡って門をくぐって、またあのカーブがいいんですよ。(先が)見えない角を曲がるっていう。何なんだろう。遊園地の、テーマパークのアトラクションに入った瞬間みたいな感覚でしたね。 曲がった瞬間に、三十軒長屋が手前にあって「平成中村座」があって。そのうしろに、姫路城がある。あれを見たら、笑いが止まらなかったですね。素晴らしいロケーションでした。 ――演目は、どのように決めたのですか? 僕が提示したのは「播州皿屋敷」と「天守物語」。これは、ぜひやった方がいい、やりたいと。でも、これは自分がやるものではないから、(中村)七之助の意見というのがすごく大事ですし、彼をどうにか口説き落とすというね。これはもう、みんなでしましたね。 やはり、おいそれとできる演目ではないですし、アンタッチャブルなものだったと思います。僕にとっても、彼(七之助)にとっても、本当に尊敬して大好きな先輩、坂東玉三郎のおじさまという方がいらっしゃって。その方が作り上げてきた世界ですので、触れちゃいけないもの、“お持ち帰りのもの”という感覚があったんですけど。 でも、それじゃあ本当にもったいないですし。どうにかこの「平成中村座」で、姫路城で公演するっていうので、七之助にやってほしかったですね。 ――玉三郎さんが、一から稽古に来てくださいました。 稽古を見てくださった瞬間というのは、たぶん、ずっと忘れないでしょうね。歌舞伎をやっていれば、これは当たり前のことなんですけれども、受け継がれる伝承というか。 おじさまがお座りになっていて、その目の前で富姫の台詞を発している弟を見た瞬間は…うん…良かったなと思いましたね。 コロナもあって、僕たちが追い求めていたものが、やっぱりいろんな先輩たち、大好きな人たちが亡くなって、受け継げなくなって、もどかしい気持ちがあったんです。 (だからこそ)あれが伝わった瞬間というのは、うれしかったですね…。精神というのが受け継がれたのは、良かったなと思います(と言って、涙ぐむ)。 玉三郎のおじさまは、2月から定期的に稽古を、そして姫路に入って本当に朝早くから夜遅くまで、明かり(舞台照明)を作ってくださいました。 演出も、ダメもとでお願いしたんですけれど、快く引き受けてくださって。こちらが心配になるくらいに「天守物語」を作り上げていく姿を見て「ああ、こうならなきゃいけないし、(こう)なるためにはいろんなことを知らなければいけない。勉強しなきゃいけない」と、改めて感じました。 ――カーテンコールでは、玉三郎さんが舞台上に…。 初日と2日目、姫路に入ってくださって。初日ね、カーテンコールで下手(しもて)から、おじさまが出てきたときは、うれしかったですね。 僕らも大好きですけど、うちの父(十八代目 中村勘三郎さん)がね、本当に大好きな人だったので。いつかは「平成中村座」にって話をしていたのも知ってるし。でもね、チャンスがなくて。 もちろん「お染の七役」を教えに来てくださったときとか、「平成中村座」の空気とか雰囲気とかは知ってますけれども、舞台に立つ、お客さまのところに…というのはね。良かったなと思いました。お父さん、喜んでるなって思いました。大好きだったので。 でもそれは、七之助のおかげですね。あっぱれです。あいつが良くなかったら、できなかったですからね。本当にいい弟をもったし、それをもって親孝行ができている彼を見て、本当にうれしかったですね(と、再び涙)。