元日テレ町亞星 ヤングケアラー時代「偉いね」の言葉が重圧に「一番泣いてたのは私」
元日本テレビアナウンサーで現在フリーの町亞聖(53)が著書「受援力“介護が日常時代”のいますべてのケアラーに届けたい本当に必要なもの」(法研)を刊行した。町は18歳の時に重度の脳障害となった母親の介護を10年続けた“元祖ヤングケアラー”だ。介護に直面した時に大切なのが、誰かに助けを求めることができる力=受援力だという。自身の介護経験とともに受援力について語った。 【写真3枚】日テレアナウンサー時代の町亞聖 町の生活が一変したのは18歳の時。母の広美さん(発症時40歳)がくも膜下出血で倒れたのだ。「どんな姿になってもいいから母に生きていてほしい」と願った。 町には当時、15歳の弟と12歳の妹がおり、きょうだい3人は、母親を失うかもしれないという恐怖と不安の日々を過ごした。母の入院生活が始まると父は寝袋を持ち込み病院に寝泊まりするようになった。「『今日からお前が母親だ』と父に言われて。きょうだい3人で家に置き去りにされたような状況でした」と母親代わりを任された。 幸いにして一命は取り留めたが、広美さんは脳に重度の障害を負い、車イス生活となった。酒乱の父親に頼ることもできず、母の介護生活が始まった。そんな過酷な環境のなか「できないことではなく、できることを数える」という発想の転換で母親の介護を前向きに捉えるようになる。母の車イスを押しながら見た景色は「気付きの連続だった」という。 その経験があったからこそ、自分の言葉で伝えたいという思いが強くなった。1浪の末に立教大学に進学し、日本テレビのアナウンサー試験にも合格。はたから見ればまさにスーパーウーマンだが「『町さんが強くて優秀だったから』と言われるけど、強くならざるを得なかった。強くならないと乗り越えられない呪文を自分にかけるというか。一番泣いてたのは私」と人知れず涙を流した。 当時は介護保険制度もバリアフリーの概念もなかった。「誰に助けてと言ったら何を助けてくれるのかも分からなかった。期待しても期待してるものが返ってくるわけじゃないと分かっていたので」と助けを求めることはなかった。 強さを身に付けたが、後悔もある。「母の前で泣かないと決めてたんですけど、泣いてよかったんじゃないかと。苦しい、悲しいと言ってよかった。公的な援助を頼る受援力もあれば、身近な人に対しての受援力もある。1人で抱えないでいいんだよという力のことかな」 「偉いね」。町が母親の車イスを押している時に、よく大人たちから掛けられた言葉だ。「お母さんと出掛けているだけなのに『偉いね』と言われると、いい子でいないといけなくなる」と違和感を覚えた。こうした声が「介護を担うのは自分しかいない」と思い込ませ、助けを求めづらくすることもある。ケアをする側へのケアも大切だという。 町が芸能界の母と慕うのが歌手の中尾ミエだ。町の著書「十年介護」(小学館文庫)を読んだ中尾から「大変だったのね、アンタ。幸せになんなさい」と言葉を掛けられた。「すごくうれしかった。この言葉を言ってほしかったんだって。今、悩んでいる子供たちに、ミエさんみたいに声をかけられる人間になりたいと思います」と笑顔を見せた。 ☆まち・あせい 1971年8月3日生まれ。95年に日本テレビにアナウンサーとして入社。報道局に異動し、報道キャスター、厚生労働省担当記者として、がん医療、医療事故、難病などの医療問題や介護問題などを取材。2011年に日本テレビを退社し現在、フリーアナウンサーとして活躍。
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