平野啓一郎、「1つの死刑」で痛感した人生の偶然性 「異世界転生もの」流行の背景にある現代人の感覚
環境が人をつくるところがあると思っています。今の自分の能力が発展してきたのは、こういうふうにデビューして、こういう環境の中で書いてきたからだ、という感覚です。 もし違った形のデビューだったら、その後に書いていくものも違っていたんじゃないかと思います。 ――環境との相互関係の中で、自分というものがつくられていくと。 なので逆にいうと、今自分がいる環境にすごくストレスが多い場合は、そこから離れることは1つ、大事な決断なのだろうと思います。
人間関係に悩んでいるとき、その環境にとどまって解決しようと思っても埒があかないことは結構ある。その原因となっている人と接点のない環境に移動することを考えたほうがいいかもしれないですよね。 ――人生の「たられば」に翻弄されすぎない、うまい捉え方・付き合い方はあるでしょうか? 実はたくさんの偶然に囲まれている、分岐点だらけの人生なんですよね。だけどその意味をいちいち気にしている余裕はないので、ほとんど意識せずに生きている人も多いと思います。
だからこそ、こういう物語に触れて、偶然性というものに対する感受性を回復させるというか、偶然に囲まれて生きているんだなということを再認識できるといいのかなと思います。 ■小説は書き手にとっての「自己救済」 ――コンテンツ氾濫時代に、小説というエンターテインメントは生き残っていくと思いますか? 僕は、小説は絶対にこの世からなくならないという自信があるんですよ。なぜかというと、読む人がいるか、売れるかという以前に、まず書いている人にとって一種の自己救済のようなところがあるからです。
僕たちがまだ言語化できていないもの、AI(人工知能)には語れないものというのは、人間が言葉にしていくしかない。 この世界に生きていて、何か満たされないものがあって、その気持ちのやり場がない、うまく表現できないもどかしさとか、あるいは「ここにも自分と同じ人がいた!」という感動とか。人にそういう感情がある限り、小説は書かれ続け、読まれ続けていくんじゃないかなと思います。
長瀧 菜摘 :東洋経済 記者